「ツイッターは飲み会に近い」というのが昨日書いた私論ですが、
それをふまえた上で、なにが面白いのかをもう少し。
全部私の個人的な意見になりますが、それをふまえて読んでください。
実を言えば私はそんなに飲み会好きではないです。
あまり行かない方です。
最近になるまで「飲み会」という場の楽しみ方がよくわからない、と
ずっと感じていました。
気心の知れた人たちとの、少人数の飲み会は別ですよ。
そうじゃなくて大勢の飲み会。
話したい人がいれば行くけど、大勢のいる場で話したって、
話せるもんじゃないし、人がいる中で話すのって、割って入って
来る人もいて、結局話したいことも話せずに
面倒くさいことになることも多いし、
大勢いる席で自分たちだけ話すのってそもそもマナー違反にも感じるし。
聞かれたくないことを聞かれることも多いし。
人との出会いを楽しむとかいったって、別にそんなに
楽しむほど出会いたいわけじゃないでございますよ、
こちとら人みしりなんですよと。
あと帰る時間も難しかったりするし。
切り上げができずにだらだら話していたりするの苦手ですよ。
さんざん書きましたが、最近は
「そもそも飲み会に大きな期待をするのが間違っている」
という大前提が理解できたので、逆にだいぶ楽しめるようになりました。
たかだが飲み会にそんなに多くのことを求めるのが間違っていた。
要は参加するときに「送別会をする」とか「元気づける会をする」とか
「店の料理と酒を楽しむ」とか「とにかく喰う」とか
参加する一員として何を求めて行くかをイメージしてから行くと
それがクリアできればオッケーだし、それに付随するものはプラスアルファの
楽しみになるので、それでいいと思うようになってきました。
ツイッターをはじめて最初の頃は、読み切れないということに
本気で悩みました。
時間がいくらあっても足りないのです。
しかし、もうそれは仕方ないのだと諦めることで、
だいぶ楽になりました。
それも含めて人の縁でありタイミングだと、
その考えを受け入れることにした。
あと、個人的に自分がきつかったのが、
不意打ちで誰かの重い言葉が出てくることです。
そんなものは聞ききれませんよと。
実際にタイムライン上で見落とすこともありますし、
きりがないのです。
これも、申し訳ないんですが、受け止められるときは受ける、
そうでないときは受けない、と
割り切ることにしてしまいました。
これも、そこまで互いに期待しあうのもおかしい、と。
気になる時や友達はさかのぼって読んだりしますが、
それができないのも含めて人との関わりだと。
これは、フォローしている・されている という関係を
軽く考えること、諦めることで、
私が救われた例です。
逆に、自分のほうも、自分が発した言葉を
全部読んでもらえているという期待はしない、反応がなくても
きにしないと思うようになりました。
そういうときに自分が考える基準が「飲み会」でした。
飲み会で出てきた言葉を全部拾おうとするかと。
飲み会で言った発言を全部聞いて貰えると思うかと。
それはむしろマナー違反ではないのですかと。
飲み会でよく出てくる、よい言葉のひとつが
「◎◎さんとお話ししてみたかったんですよ」という言葉だと思うのですが、
これも、全員と話をするということを諦めることによって、
つかめることだと思いますし、
飲み会という「場」があるから、そういう出会いも生まれる。
全員と深く話すことは諦めるけど、その「場」には居るし、
受け入れる体勢もある。
少なくともそこにいるということで、傾ける耳はある。
ゆるいコミュニケーションの仕方だなと思うのですが、
そのくらいゆるくても、全然十分だなと知ったのでした。
逆に、そういう場だからこそ、少ない言葉数でコミュニケーションできる
こともある。
ツイッターをやってから、私はむしろ普段、
もっとこうして軽い会話をすべきなのだと思ったくらいですし、
それをやりたい人もたくさんいたのだと知りました。
大きく飲み会と違う点は、自分の好きなときに参加できることです。
時間と場所と料金のことを気にしなくていい飲み会。
メンツは一応知っている人か、知り合いの知り合い、
もしくは自分を見て声をかけてきてくれた人(=フォローしてくれた人)、
自分の好きな有名人や漫画家や著名人。
みんないつもいつもいるわけじゃないけど、いることもある。
それぞれが好きなことを言ったり会話したり言葉遊びしたりしている。
それはヤバイ。それは長居する。
ところで昨日、ブログをアップした後に
ツイッターで更新のお知らせをしたら、たくさんご意見を
いただきました。こういう、すぐに反応が来るっていうのも、
ツイッターのすごくありがたいところです。
飲み会がそうであるように、ツイッターって、
人が話を持ち寄る報告の場でもあるんですよね。
適当につづきます。