2010年05月22日

「テキストの時代」〜後編

前編中編を読んだ上でお読みいただけるよう御願いします)

よく若者の活字離れが進んでいる、と言いますが、
私は、「活字」そのものの読む量は
前よりも増えていると思っています。

ただそれを「本」だけで読んでいたか
「ウェブサイト」「携帯」「メール」「ミクシィ」「ブログ」
など、あちらこちらで少しずつ読むか、
の違いじゃないのかなーと。
ゲームだって読ませる文章量半端ないですよね。

そうなってきたときに
さらに与えたい情報の伝達手段をどうするか。
そこで文章が表面的に敬遠されたので、動画が選ばれたのではないか、
と感じてます。

ただそこで、動画を選べるのは、ちょっと前だったら
確実に少数派だったはず。
大変だったはずですからね動画扱うの。

それが、ほんの1、2年で動画を扱うコストが限りなくゼロに近づいた。
結果、動画はプレミアなものではなく、
あって当たり前のものになったし、
むしろ、情報を発信する際の最初の選択肢にもなった。

動画が簡単に扱えるようになった、
という現状は、デジカメが出てきたことで
写真がわりと簡単に扱えるようになった、という状況に
似ているのではないかと思います。

それまではカメラマンさんだけしか扱えないものだった写真が、
ある程度までは、素人でも扱えるようになった。

写真がある程度、一般の人にも解放されたように、
動画もそういうものになる。

それを感じたのが、さきに書いた岡田斗司夫さんのように
「とりあえず世界に自分の考えを表明しておく」という形で、
動画を使う人が出てき始めた時だったというわけです。

プラス、もうひとつ時代を感じたのは
芸能人の方が独自に動画発信をしたりしてるのを見たときです。

ロンドンブーツ1号2号の敦さんが休日に面白いことをやろうと
「あつしの休日」をライブ配信したり、
オリエンタルラジオのあっちゃんが盗まれた自転車をライブで探してたり
(どっちもあっちゃんというのは何かの偶然なのか)
している様を、あれだけ仕事してて、エネルギーあんなぁ、
とあきれたり楽しんだりして観察しています。

昔は、テレビ以外のファンサービス的なことといえば
それこそファンクラブ会報ぐらいしかなかったのが
ブログが出てきて、ツイッターが出てきて、
さらには動画まで開放されつつある。

かつて、音楽雑誌の切り抜きを集め、
毎月発行と言いながら季節に1回くらいしか来やしねぇ
アーティストのファンクラブ会報を楽しみに待っていた世代としては、
時代は変わったなと感じざるを得ませんよ。

なんというか、売れてない人がやってるんじゃなくて、
売れてる人がさらに面白いことを求めてやってるわけなので、
そのくらいガツガツしないと本来いけないものかなぁと刺激されつつ
事務所大丈夫なのかなと勝手な心配もしたくなります。

(ひろゆき氏が書いていることは、革新派と
 既得権というポイントがあってさらに面白いです。
ひろゆき日記:ロンブー淳さんとavex松浦さんが面白いけど、心配な件。

情報の一次発信として、動画も安易に用いられるようになって、
「全おこし」を中心とした膨大な文字量もあふれるようになった背景には、
人件費という部分を背景にした不況の影響があると中編に書きました。

ただ、そこまで動画が広がったのに、
勝間さんとひろゆき氏の対談のときのように、
わざわざ文字起こしをする人がいるというのも、妙と言えば妙なことです。

削除される可能性があるというのももちろんありますが、
面白いと思ったことを、テキストで残しておこうと思うのは
なんなんでしょうね。妙な責任感ですよね。

選りすぐりの情報がさらにテキスト化されるという現状。

動画にしろ写真にしろ、
ウェブやデジカメの影響で、ここ数年で一気に価値が変化しました。

テキストはどうかといえば、テキストは
ワープロからパソコンになって、「コピペ」が出来るようになって、
ブログや掲示板が出来たときに、それこそ
「とりあえず発信」するコストはほぼゼロになりました。
写真や動画よりも早く、文字の価値は一気に落ちてた。

さきに書いたように、昔ならニュースにならなかったことも
ニュースとして世界に流れるようになった。
テキストだけじゃ差別化できないから、なら写真だ動画だと
手段が進化してきた。

一周して「やっぱりテキストの時代だよ」なのか、と。

動画にしろ、写真にしろ、文字の全起こしにしろ、
作る側の労力がかかる作業です。
作り手として「やった気」には、なる、ということです。

伝える側の具体的な話をすると、
過去、有り体に言うとヌルヌル会見とかで意図的に全起こしをやりました。
これは全文読みたいでしょうと思いました。

そうじゃないときにあんまりやりたくはない。単純に疲れるし。
「やった気」になるのが怖いのと、
「マニアは喜ぶ」とか言うけど、その言葉に甘えるのが怖いからです。

「マニアは喜ぶ」という言葉がまかり通る現代ですが、
以前は、その言葉を理由にしてざっくりしたものを世に出したとしても、
作り手の側の、本当は面白いんだぜという意志が入ってたような気がしますが、
最近は本当に、ただざっくりしたものをそう呼んでるのが多いように感じます。
それはマニアじゃなくて、ひまな人が喜んでるだけですし、
その言葉に甘えて未編集なものを世に出すのはどうなのか、と思ったりもします。

速報やライブ配信なら、まだやる意味はあるでしょうが、
配信する側の信頼性(=面白い情報を流す媒体という信頼)を思えば
安易にやるのはどうなのかなというのが個人的な考えです。

私が全起こしや「ダダ漏れ」に代表される動画配信があんまり好きじゃないのは、
面白い部分を見つける作業をユーザーに任せてるからです。
なんで、おまえのいいところをこっちが探さなきゃいけないんだ、と思うので、
見る側としてイヤです。
そういう甘えが成り立つのはファンと芸能人なら良いんでしょうが、
(さっきのロンブー淳氏の動画みたいなのはそういう意味で成立してるんでしょう)
いち社会人として、というか、広く伝えたいという意志があるなら、
もうちょっとしっかりしようよと見てて思ったりします。

動画じゃなくてテキストの時代、という文章を書き始めて、
動画のほうがインパクトありますよという意見もいくつかいただきましたが、
それはおそらく、編集された動画のことを言われているのだと思います。
「いいところ」をどこにするか、考えて作られた動画が
面白いのは当然だと思います。(つまんなかったらそれは作り手の問題)

速報としてひたすら文字打ちという作業を今でも私はやっていますが、
テキストの場合、全起こしにしても
どうしたって人の頭を一回通しているので、
必ず編集というフィルタリングは行われるんですね。

伝えるという意味だけの動画だったら、
まずいところを消すという以上には行われないと思うし、
動画である以上、人の時間を必ず固定で奪っていく抵抗感がある。
携帯で見られたりもするようになって、動画を見るための敷居は
だいぶ下がりましたが、それでも時間はかかります。

テキストの場合、人によりますが、
動画よりは確実に短いスピードで情報を得られます。

フリーになって仕事環境を考えたとき、
「紙よりもウェブのほうが絶対にチャンスは多い。
 ウェブや携帯で一次配信された文字が厳選されて紙になる」
ということを考えていたのですが、
動画が一次配信のツールとしてここまで安くなるとは
正直思ってませんでした。

テキストの時代、という言葉から感じた、
日頃のことをダラダラ書いてきました。

べつにそれは動画の時代が終了したわけじゃなくて
動画はあって当たり前のものになってしまったので、
もはや動画があるからと言って何の差別化にもならない。
むしろ安易な動画を発信していることで
逆にやった気になってないか、本当にそのリターンはあるのか
問い返してみないといけない現状がある。

だったら動画よりも、意志を持ったテキストを
短く打ち出すほうが効果が高いのではないか。

ウェブを中心に言葉があふれかえった今、
大事な言葉が大事じゃない局面で使われることも多くなりました。
もっともらしいことは誰にでも言えます。

ただ、どんな時代でも
そこに気持ちがこもってるかどうか、意志がこもってるかどうかは
なんとなく伝わりますし、
たくさんの情報を流しすぎることで、
逆に伝わらなくなることもありますし、
「いつも長く喋ってるだけで中身ない」と思われることもありますし、
媒体が「あそこの動画は長いだけで見る価値ない」と思われたら大変です。

デジカメにしろムービーカメラにしろ、
ブログにしろツイッターにしろyoutubeにしろ、
伝える側の技術が進化した結果、伝えることの中身は
ほんとに追いついてるのか。

伝えることを皿にのっけて客前に出すまでの敷居は下がったけど、
ほんとに食べてもらってるかどうかは微妙じゃないのか。

言いたいことはなんなのか、
発信するより前に自分へ問いかける作業が必要になっているんだけど、
その作業を支援するツールというのが
ノート術くらいしか生まれてないように見えるのが不思議です。

送り出す側の伝える意志と、問い返す作業が必要になった、ということ、
それはつまり「編集」というフィルタリングが求められている。
ただ流しただけで分かってもらえるというのは甘えで、
見てもらうためにもう少し頑張らなくてはいけなくなった、
ということ。

で、その「頑張らなくてはいけない」人は
以前は、マスコミや芸能人だけだったのが、
不況の影響と誰でもブログを持てる時代、
どんな企業も人集めといかに物を売るかで苦心している現状、
写真や動画を扱うハードルが低くなった現状で、
他人事ではなく、一般の人もそうだということです。

そして、動画が誰でも扱えるものになった今でも、
テキストの汎用性と利便性は何にも負けていないし、
むしろ受け手の許容量とハードルを考えたらテキストの力は本当に強い。
誰でも真剣に考えれば生み出せるはずの言葉、テキストの力というものを
もう一度考えてみてもいいんじゃないのか。

一次発信として動画が簡単に使えるようになった現状を理解した上で、
受け手の許容量を理解した、短く伝えられるテキストの時代が来ている。

という感じでなんとかまとまったかなと思います。

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ふう。
短く伝えられるテキストの時代が来ている、という結論に至るまでに、
なんと長いテキストが必要だったことでしょう。
と、セルフツッコミしときます。

考えてることを整理しながら書くのはめんどくさい。
でも、やりとげたかった。
考えてることをいちいち満足するまで考えて文章にしていく、
という作業を、
めんどくさくても、やっていこうと思っています。

「では、私たちがしていないことは? それは「考える」こと。情報を処理してはいるが、考えてはいない。2つは別物だ。」

ニューズウィーク日本版「iPadであなたはもっと馬鹿になる
の中の、ワンフレーズです。

いいタイトルですね。
本当はこうやってシャッキリ刺激的なこと書けないとダメなんだろうな。

目標は高く置こうと思います。


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以下は蛇足というか、発展編です。

1年前くらいに、取材対象への囲み取材時の話をしていたとき、
日本の記者はだいたいICレコーダーを使うけど
ここで動画撮影をするようにすれば、
撮った素材をもっといろんな形で利用できるようになる
という話を、同業者の方としていたのですね。

そのときは「へー、だけど起こしとかめんどくさくないんですかねー」
などと、ばかな受け答えをしていた私ですが、
今になってその意味が腑に落ちてきました。

違う言い方をすれば、一回の取材からいろんなお金のもとを産むように
動けないか、考えるということでもあります。
これは、自分のやっている仕事であり時間をいろんな形で生かす、
という意味で、すぐ取り入れなくても覚えておこうと思いました。
posted by ささきぃ at 17:13| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月19日

「テキストの時代」〜中編

(※前編を読んでから読んでください)

「これからはテキストの時代だよ」と、
堀江貴文さん、という、インターネットについては
それなりの見識を持っている方がそう言ってたことで、
あぁよかった、私ひとりじゃないんだ、
と、有名人と同じ意見で安心する、チキンな私です。

テキスト化してあることで、まず簡単に要点を拾える。
おおよそ、テキスト化するときに人は
要点を拾って大事なところを抜き出しますし、
遊び心のある人でしたら、その内容を面白くします。

そこで、テキストにした人のフィルタリングというか、
意志による情報の取捨選択は当然かかりますが、
そもそも、そのフィルタリングぶりが
メディアの売りだったはず。

それが、おそらくは不況の影響とかもあるのでしょう。
そして流すべき情報が多すぎるという点もあるのでしょう。
さらに、格闘技だけじゃなく、どんな企業もとにかく
自分のところを知ってもらう、顧客を増やすという大義のもと
いままではニュースにならないものも流れるようになった。
動画に限ったことじゃなく。
ウェブがそれを加速させてるのは確かですが、
ウェブに限ったことでもないと思います。

広告記事も当たり前のように出てきて、
さらには何かについて調べようとするたびに
つくりかけのブログみたいなのが出てきてキーッとなったりする。

情報がいつのまにやら「源泉かけ流し」みたいな状態で流れるだけじゃなく、
信用性が問われるようにもなった。

結果、一周して、この人が言うんだから信用できる、
この人が言うのだからそうなんだろう、
という、目利きの存在が求められるようにもなっている。

たまたま堀江さんの意見の引用がつづきますが、
週刊ダイヤモンドのツイッター特集号(2010.1.23号)で
津田大介さんとの対談で、

「僕がツイッターに求めているのはソーシャルフィルタリング
 なんですよね。ストレートニュースは入ってきて欲しくないんです。
 いったん『目利き』のフィルタリングを通して入ってきて欲しい」

と語っていらっしゃいました。

私がツイッターに感じている魅力も、
「この人が注目してるんだから、大きいことだな」とか、
「これだけ意見が続いているということは、こうなんだな」とかの
民意の波みたいなものに対する期待がひとつありもします。

ただ、ツイッターのタイムラインは自分で作れるものですから、
どうしたって自分と近い意見の人のものを拾いがちでもあるので
そこは注意しなくてはならないところです。
裸の王様になってしまう場合があるということです。

話がそれましたが、ツイッターもまさに「テキストの時代」らしい
ツールだったりもします。
140文字で言いたいことをまとめるってすごい訓練ですしね。
個々人が言いたいことを140文字にまとめたテキストが、
バーッと流れてくるわけですから、まさにテキストの時代。

圧倒的な文字量が求められたテキストの時代を経て、
動画の時代が来ている中、
次に来るのが「編集されたテキストの時代」というのが、
おもしろいなーと思ったのです。

私はライターで、テキストを自分の武器として選んだので、
どうしたってテキストびいきにはなるし、
動画をあまり見ないほうなので、偏った意見だとは思います。

その上でですが、動画じゃなきゃ伝わらないものというのが、
どのくらいあるのか、正直私にはよく分かりません。
動画じゃなくてもいいものが、動画で流れているというのが
現状じゃないかと思っています。

ただ、動画だったり、ポッドキャストだったりというものの強みは、
そのために時間を使わせることで、対象に対する
「親和性」が高くなるということじゃないかという気がしています。

親和性ってこういう局面で使う言葉じゃないとは思いますが、
対象に対して親しみが強くなる、好感度が高くなる、
距離が縮まったように感じる、みたいな意味あいを
他の物質と容易に結合する性質や傾向、という本来の意味に
かけて、字面で使っています。

時間をかけたものを、無駄だったとは誰も思いたくないから、
あえて動画にして、見させることが出来れば、多分ある程度
対象のことを深く知った気にさせられるだろうし、
好感度が高くなることも考えられるでしょう。

たとえダメ出ししながら動画を見たとしても、
それだけ対象のことを知った気にさせられる。

テキストの時代であったとしても、
その強みは多分失われることはないと思います。

もうひとつ、動画って
ものすごく何かを「やった気」になるツールでもありそうだな、
と思ってます。

絵と音がそろって演出できるソフトですから
そりゃ、文字だけのテキストなど、
インパクトとしては段違いでしょう。

伝えたいテーマがあるとして、
理解を得たい場合はテキスト、親和性を高めたい場合は動画、
という使い分けがひとつできそうですが、
ただ、動画をどう見せるかというところで、
誘導の場面にはどうしたってテキストがいりますよと。

増幅装置としての動画の威力、ライブで発信する動画の力に対して、
テキストは無力です。
ですが、その増幅させようとする力、ライブで発信される力の
威力を、うすうすみんな感じ始めてるのも事実でしょう。

受け取る側にも、受け止めきれるボリュームというのが
あるのです。
posted by ささきぃ at 11:21| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月18日

「テキストの時代」〜前編

GW中、勝間和代さんとひろゆき氏の対談、
および岡田斗司夫さんの「ノート術」についての動画を見てました。

岡田斗司夫のノート術

※勝間vsひろゆき動画は、私が見たやつは消されてたので
 適当に検索してみてください※

前者の対談は、2人のバトルが話題になっていたので
動画で、興味深く拝見いたしました。
こちらについては、勝間さんが対応を謝罪されたりしているので
もう別に何も言うことはないです。
(ツイッターではいろいろ書きました)
ノート術については、ノート好きな自分としては見逃せなかったので、がんばって見てみました。

ノート術についての動画というのは、岡田さんが独自に
続けている、ノートによる振り返りや思考術を解説していて、
これは私にとって非常に面白かったです。
おそらくノート術についてのメソッドというか、考え方が
岡田さんの中でしっかり固まっておられるのでしょう。

動画は、講演をカメラで撮ったものが分割されてアップされてました。
私個人はネットで動画を見る、ということを
あんまりやらない人間なので、見る前に
「すごくいい方法だけど、できれば動画じゃなくて
 テキストにまとまってほしかったな」
と思ってました。

しかし、見終わって、実際ノート術を本にする話も進行してる
ような文面を、岡田さんのブログで拝見した時に
「あぁそうか、テキストにまとめるとなると、
 岡田さん、もしくはこのメソッドを同等に理解している人の
 人件費がかかるわけか」
と気づきました。

で、GWが明けた6日に
ホリエモンこと堀江貴文氏が、
勝間さんとひろゆき氏の対談を、動画じゃなくて
文字おこしのテキストで見た、ということを
ブログに書いていたんですね。

六本木で働いていた元社長のアメブロ:ちょっと周回遅れ気味だけど、勝間さんとひろゆきの対談。

いわく、映像だと30分とか時間を取って見なくてはならない、それは
退屈すぎる。書き起こしたものなら数分で読めてしまう。
いわく「これからはやっぱテキストの時代だよ」と。

この言葉が、自分にとって結構響いたのでした。

自分の見識で言えば、
かつて「動画の時代」というのも、確実に
あったはずなのです。

私が知っているのはどうしても格闘技系の話になりますが、
携帯サイト含め、ニュースサイトがいっぱい生まれた頃、
とすると6年前くらいですか。
他との差別化の中で、プロレス格闘技系ではおそらく
最初はスポナビがやりはじめた
と思うのが「全おこし」というか、
とにかくコメント類を全部載せてしまう行為でした。

他のサイトも、地方大会の試合寸評とか、
それまでならスルーされるなり、載せられることなく終わってた
ものを、あえて全部載っけることによって
他との差別化をはかっていた。

それの何がいいかというと
「全部載ってる」ということのインパクトと、
あと編集に手間がかからないこと。

通常、コメントなり会見なりをニュースにするのは
「ニュース記事」にするという手間がかかります。
全文載せるのだったら、とにかく録音したものを起こせば
いいわけだから、記者の側に編集スキルが必要なくなる。

マニアの多いニュースサイトの場合(※格闘技に限ったことじゃなく)
記者の編集を、むしろ良しとしないというか、
いいから全部読みたいよという層が少なからずいたので、
この方法は受け入れられたのだと思います。

そして携帯やウェブで動画が見られるようになると、
今度は、サイトユーザーだけのオリジナルメッセージとかを
動画で配信するようになってきた。

で、それがサイトの「売り」になっていた時代が
確かにあったはず。

当時は、動画が扱えるのは専門の人だけだった。
youtubeの登場で、素人でもけっこう動画が扱えるようになって、
いまやiPhone等を使えば、ライブストリーミングは
誰でもできるようになった。

もちろんちゃんとした動画というか
編集された動画は、プロの手によるものじゃないといけませんが、
「とりあえず見られればいい」というレベルの動画なら、
流すためのコストは限りなくゼロに近づいた。

上に書いたように、会見やコメント全起こしというのは、
記者がひとり行って、録音して戻ってきて打ち込むだけ、の
一番人件費がかからない方法だったはずなんです。

でも動画なら、現場で撮影して戻ってきてしかるべき方法で
アップすればいい。
もしくは同時中継をウリにするなら、戻ってからのコストもかからない。

結果、テキストよりも動画のコストのほうがかからなくなっている。
何も伝えないことよりも、何かを伝えるなら、
いま、一番動画がてっとりばやい方法になっているのでは
ないだろうか。

というようなことを、「ノート術」の動画を見ていて感じました。

岡田さんのノート術は、確かに面白い方法なのですが、
それをキッチリテキストにまとめようとしたら、
岡田さん、もしくは岡田さんの方法を完璧に理解している人の
時間が必要になってくるわけです。

だけど、講演の動画をアップすることなら、
少なくとも岡田さんじゃなくても、機械に詳しい人ならできる。
公開すること、公開して理解されること、
その間に意見交換をしたりしてブラッシュアップしていくことは
できるわけです。

ただ、動画というのは伝える方法としてありがたいものなのかどうか。
どうも、かつて、動画を扱えるのは一部の人に限ったこと
だった時代の名残というか、
動画=すげぇ、と思わなくてはならないのではないか、
という、かすかな疑問が私にはありました。

私自身は、動画は恐るべき早さでこっちの時間を奪っていくと
思っているし(まぁネットサーフィンもそうですけど)、
未編集な動画って、見ていてほんとうにきつい。
すぐ「要点を言ってくれ」と思ってしまう。

ただ、それは自分が音楽以外の「ながら聞き」ができないのと、
私がテキスト好きなゆえだと思っていたのです。

そこで「これからはやっぱテキストの時代だよ」発言なわけです。

つづく。
posted by ささきぃ at 23:16| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする