よく若者の活字離れが進んでいる、と言いますが、
私は、「活字」そのものの読む量は
前よりも増えていると思っています。
ただそれを「本」だけで読んでいたか
「ウェブサイト」「携帯」「メール」「ミクシィ」「ブログ」
など、あちらこちらで少しずつ読むか、
の違いじゃないのかなーと。
ゲームだって読ませる文章量半端ないですよね。
そうなってきたときに
さらに与えたい情報の伝達手段をどうするか。
そこで文章が表面的に敬遠されたので、動画が選ばれたのではないか、
と感じてます。
ただそこで、動画を選べるのは、ちょっと前だったら
確実に少数派だったはず。
大変だったはずですからね動画扱うの。
それが、ほんの1、2年で動画を扱うコストが限りなくゼロに近づいた。
結果、動画はプレミアなものではなく、
あって当たり前のものになったし、
むしろ、情報を発信する際の最初の選択肢にもなった。
動画が簡単に扱えるようになった、
という現状は、デジカメが出てきたことで
写真がわりと簡単に扱えるようになった、という状況に
似ているのではないかと思います。
それまではカメラマンさんだけしか扱えないものだった写真が、
ある程度までは、素人でも扱えるようになった。
写真がある程度、一般の人にも解放されたように、
動画もそういうものになる。
それを感じたのが、さきに書いた岡田斗司夫さんのように
「とりあえず世界に自分の考えを表明しておく」という形で、
動画を使う人が出てき始めた時だったというわけです。
プラス、もうひとつ時代を感じたのは
芸能人の方が独自に動画発信をしたりしてるのを見たときです。
ロンドンブーツ1号2号の敦さんが休日に面白いことをやろうと
「あつしの休日」をライブ配信したり、
オリエンタルラジオのあっちゃんが盗まれた自転車をライブで探してたり
(どっちもあっちゃんというのは何かの偶然なのか)
している様を、あれだけ仕事してて、エネルギーあんなぁ、
とあきれたり楽しんだりして観察しています。
昔は、テレビ以外のファンサービス的なことといえば
それこそファンクラブ会報ぐらいしかなかったのが
ブログが出てきて、ツイッターが出てきて、
さらには動画まで開放されつつある。
かつて、音楽雑誌の切り抜きを集め、
毎月発行と言いながら季節に1回くらいしか来やしねぇ
アーティストのファンクラブ会報を楽しみに待っていた世代としては、
時代は変わったなと感じざるを得ませんよ。
なんというか、売れてない人がやってるんじゃなくて、
売れてる人がさらに面白いことを求めてやってるわけなので、
そのくらいガツガツしないと本来いけないものかなぁと刺激されつつ
事務所大丈夫なのかなと勝手な心配もしたくなります。
(ひろゆき氏が書いていることは、革新派と
既得権というポイントがあってさらに面白いです。
ひろゆき日記:ロンブー淳さんとavex松浦さんが面白いけど、心配な件。)
情報の一次発信として、動画も安易に用いられるようになって、
「全おこし」を中心とした膨大な文字量もあふれるようになった背景には、
人件費という部分を背景にした不況の影響があると中編に書きました。
ただ、そこまで動画が広がったのに、
勝間さんとひろゆき氏の対談のときのように、
わざわざ文字起こしをする人がいるというのも、妙と言えば妙なことです。
削除される可能性があるというのももちろんありますが、
面白いと思ったことを、テキストで残しておこうと思うのは
なんなんでしょうね。妙な責任感ですよね。
選りすぐりの情報がさらにテキスト化されるという現状。
動画にしろ写真にしろ、
ウェブやデジカメの影響で、ここ数年で一気に価値が変化しました。
テキストはどうかといえば、テキストは
ワープロからパソコンになって、「コピペ」が出来るようになって、
ブログや掲示板が出来たときに、それこそ
「とりあえず発信」するコストはほぼゼロになりました。
写真や動画よりも早く、文字の価値は一気に落ちてた。
さきに書いたように、昔ならニュースにならなかったことも
ニュースとして世界に流れるようになった。
テキストだけじゃ差別化できないから、なら写真だ動画だと
手段が進化してきた。
一周して「やっぱりテキストの時代だよ」なのか、と。
動画にしろ、写真にしろ、文字の全起こしにしろ、
作る側の労力がかかる作業です。
作り手として「やった気」には、なる、ということです。
伝える側の具体的な話をすると、
過去、有り体に言うとヌルヌル会見とかで意図的に全起こしをやりました。
これは全文読みたいでしょうと思いました。
そうじゃないときにあんまりやりたくはない。単純に疲れるし。
「やった気」になるのが怖いのと、
「マニアは喜ぶ」とか言うけど、その言葉に甘えるのが怖いからです。
「マニアは喜ぶ」という言葉がまかり通る現代ですが、
以前は、その言葉を理由にしてざっくりしたものを世に出したとしても、
作り手の側の、本当は面白いんだぜという意志が入ってたような気がしますが、
最近は本当に、ただざっくりしたものをそう呼んでるのが多いように感じます。
それはマニアじゃなくて、ひまな人が喜んでるだけですし、
その言葉に甘えて未編集なものを世に出すのはどうなのか、と思ったりもします。
速報やライブ配信なら、まだやる意味はあるでしょうが、
配信する側の信頼性(=面白い情報を流す媒体という信頼)を思えば
安易にやるのはどうなのかなというのが個人的な考えです。
私が全起こしや「ダダ漏れ」に代表される動画配信があんまり好きじゃないのは、
面白い部分を見つける作業をユーザーに任せてるからです。
なんで、おまえのいいところをこっちが探さなきゃいけないんだ、と思うので、
見る側としてイヤです。
そういう甘えが成り立つのはファンと芸能人なら良いんでしょうが、
(さっきのロンブー淳氏の動画みたいなのはそういう意味で成立してるんでしょう)
いち社会人として、というか、広く伝えたいという意志があるなら、
もうちょっとしっかりしようよと見てて思ったりします。
動画じゃなくてテキストの時代、という文章を書き始めて、
動画のほうがインパクトありますよという意見もいくつかいただきましたが、
それはおそらく、編集された動画のことを言われているのだと思います。
「いいところ」をどこにするか、考えて作られた動画が
面白いのは当然だと思います。(つまんなかったらそれは作り手の問題)
速報としてひたすら文字打ちという作業を今でも私はやっていますが、
テキストの場合、全起こしにしても
どうしたって人の頭を一回通しているので、
必ず編集というフィルタリングは行われるんですね。
伝えるという意味だけの動画だったら、
まずいところを消すという以上には行われないと思うし、
動画である以上、人の時間を必ず固定で奪っていく抵抗感がある。
携帯で見られたりもするようになって、動画を見るための敷居は
だいぶ下がりましたが、それでも時間はかかります。
テキストの場合、人によりますが、
動画よりは確実に短いスピードで情報を得られます。
フリーになって仕事環境を考えたとき、
「紙よりもウェブのほうが絶対にチャンスは多い。
ウェブや携帯で一次配信された文字が厳選されて紙になる」
ということを考えていたのですが、
動画が一次配信のツールとしてここまで安くなるとは
正直思ってませんでした。
テキストの時代、という言葉から感じた、
日頃のことをダラダラ書いてきました。
べつにそれは動画の時代が終了したわけじゃなくて
動画はあって当たり前のものになってしまったので、
もはや動画があるからと言って何の差別化にもならない。
むしろ安易な動画を発信していることで
逆にやった気になってないか、本当にそのリターンはあるのか
問い返してみないといけない現状がある。
だったら動画よりも、意志を持ったテキストを
短く打ち出すほうが効果が高いのではないか。
ウェブを中心に言葉があふれかえった今、
大事な言葉が大事じゃない局面で使われることも多くなりました。
もっともらしいことは誰にでも言えます。
ただ、どんな時代でも
そこに気持ちがこもってるかどうか、意志がこもってるかどうかは
なんとなく伝わりますし、
たくさんの情報を流しすぎることで、
逆に伝わらなくなることもありますし、
「いつも長く喋ってるだけで中身ない」と思われることもありますし、
媒体が「あそこの動画は長いだけで見る価値ない」と思われたら大変です。
デジカメにしろムービーカメラにしろ、
ブログにしろツイッターにしろyoutubeにしろ、
伝える側の技術が進化した結果、伝えることの中身は
ほんとに追いついてるのか。
伝えることを皿にのっけて客前に出すまでの敷居は下がったけど、
ほんとに食べてもらってるかどうかは微妙じゃないのか。
言いたいことはなんなのか、
発信するより前に自分へ問いかける作業が必要になっているんだけど、
その作業を支援するツールというのが
ノート術くらいしか生まれてないように見えるのが不思議です。
送り出す側の伝える意志と、問い返す作業が必要になった、ということ、
それはつまり「編集」というフィルタリングが求められている。
ただ流しただけで分かってもらえるというのは甘えで、
見てもらうためにもう少し頑張らなくてはいけなくなった、
ということ。
で、その「頑張らなくてはいけない」人は
以前は、マスコミや芸能人だけだったのが、
不況の影響と誰でもブログを持てる時代、
どんな企業も人集めといかに物を売るかで苦心している現状、
写真や動画を扱うハードルが低くなった現状で、
他人事ではなく、一般の人もそうだということです。
そして、動画が誰でも扱えるものになった今でも、
テキストの汎用性と利便性は何にも負けていないし、
むしろ受け手の許容量とハードルを考えたらテキストの力は本当に強い。
誰でも真剣に考えれば生み出せるはずの言葉、テキストの力というものを
もう一度考えてみてもいいんじゃないのか。
一次発信として動画が簡単に使えるようになった現状を理解した上で、
受け手の許容量を理解した、短く伝えられるテキストの時代が来ている。
という感じでなんとかまとまったかなと思います。
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ふう。
短く伝えられるテキストの時代が来ている、という結論に至るまでに、
なんと長いテキストが必要だったことでしょう。
と、セルフツッコミしときます。
考えてることを整理しながら書くのはめんどくさい。
でも、やりとげたかった。
考えてることをいちいち満足するまで考えて文章にしていく、
という作業を、
めんどくさくても、やっていこうと思っています。
「では、私たちがしていないことは? それは「考える」こと。情報を処理してはいるが、考えてはいない。2つは別物だ。」
ニューズウィーク日本版「iPadであなたはもっと馬鹿になる」
の中の、ワンフレーズです。
いいタイトルですね。
本当はこうやってシャッキリ刺激的なこと書けないとダメなんだろうな。
目標は高く置こうと思います。
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以下は蛇足というか、発展編です。
1年前くらいに、取材対象への囲み取材時の話をしていたとき、
日本の記者はだいたいICレコーダーを使うけど
ここで動画撮影をするようにすれば、
撮った素材をもっといろんな形で利用できるようになる
という話を、同業者の方としていたのですね。
そのときは「へー、だけど起こしとかめんどくさくないんですかねー」
などと、ばかな受け答えをしていた私ですが、
今になってその意味が腑に落ちてきました。
違う言い方をすれば、一回の取材からいろんなお金のもとを産むように
動けないか、考えるということでもあります。
これは、自分のやっている仕事であり時間をいろんな形で生かす、
という意味で、すぐ取り入れなくても覚えておこうと思いました。