震災の直後のツイッターは、とりあえず自分の知っている人たちが
みんな無事だと分かったので、あれほど有り難いものもなかったのですが
その後は、ちょうど自分の体調のひどさもピークだったこともあって
見ていてしんどかったです。
聞き流す、読み流す、ということが私はどうもできない性質で
目に入ったものは全部真正面から読んでいるのですけど、
震災の後は、ツイッターやネットをやってても
テレビ見てても、圧倒的に具合が悪くなりました。
ブログはある程度、自分の意見として自分の言葉で
消化されたものが書かれているわけですが
ツイッターって人の言葉を「RT」して
自分もそれに共感しているとか
これ読んで、という形でザクザク流れてくるので、
そして時期が時期だけに、それらの言葉ひとつひとつが
衝撃的だったり怒りや憤りがこもっていたりしました。
ツイッターはじめた頃から、いきなり重たい言葉が
流れてきたりするのが本当にいやだったんですけど、
余計にいやになりました。
知った情報を伝えたいという気持ちは分かりますし
そして本当に知らなきゃいけないことも入っているのも
分かりますが、インフルエンザで心身ともに
非常に弱っていたときだったんで、ものすごくつらかったです。
元気になってからは
休んでいた分の仕事をいっきに片付けなくては
ならなかったので、それはそれでつらかったです...。
私は震災の被害を現時点ではほとんど受けていないし、
ずっと関東在住なので生まれてからこれまで
ほとんど自然災害の被害を受けていません。
被害にあっていない、という罪悪感も大きいです。
それなのに福島の人が、関東の電気のために作られた原発で
住んでいる街が大変なことになってしまっている。
福島の方の関東への怒りが感情的に書かれた文章を読んだときと、
関東人は自粛していないで経済を回せ、という文章を読んだときが
いちばんきつかったです。
のうのうと生きてる関東人め みたいな敵意を
そこから勝手に感じたんですね。
もちろんそれは受け止めなくてはいけない事実なのだけど
すごくきつかった。
感情的な物言いや敵意については、普段ならある程度ガードして
ダイレクトに一撃をくらわないようにしていますし
どんなときでも理不尽なことを言われたら
怒るくらいの元気はある のですが
たいした被害をおっていなくても
震災が起きたことのショックと現状に対する気持ちで
自分なりにギリギリだったのだと思います。
弱っていたんですね。
あ、もうダメだ
と思いました。
そんなこと言われたらもう一歩も歩けない。
というか、怖い。
停電がいつあるか分からなくて
仕事が思うようにすすまなかったり
関東の人も西へ向かったりしている中で
この先の状況がみえない中で
不安にならないわけがない。
これ以上、何したらいいのかわからない。
ダメだ。
そこからはささいな言葉が全部ひっかかるようになりました。
なにげない言葉が引っかかって気になってしょうがない。
最初のうちは、事実を知らなければならない という気で居たのです。
でも、これ以上こういう刺激を受けてたら
確実におかしくなるなと感じました。
そこからは逃げるように情報を遮断していたんですが
スピッツの草野マサムネ氏が
ストレス障害となってしまったニュースを知って、
そうか、直接震災の被害にあっていなくても
そういうことになりえるんだ、と思った。
自分ひとりがダメだったからじゃないんだ とも思えた。
と同時に、これは本当に気をつけなくてはダメだ、
人からなんて言われても、本気で自分を守ろう、
少なくとも今は、と思った。
それを知ってから、少し自分とニュースの付き合い方を
考えるようになりました。
と同時に、どうしてテレビとかネット見てて
こんなに苦しいんだろう
と考えて、その感じはどういう感じなのだろう
と自分なりに探っているうちに、
なんというか、未消化なまま
こっちに言葉が流れてきている感じがきついのだ
と、自分なりに思いました。
例えば、私は人の愚痴を聞いているのは
まったく苦にならないんですが、
その人が自分を正当化しようとしている話を聞くのは
ものすごくきつい。
愚痴は、ネガティブな反応でもその人の気持ちであって
言いたいことそのものなので、
けっこう平気なのです。
でも、事実を話しているふうでいて
実は言いたいことが別にあったり
どう考えても平気じゃないのに平気なふりされたりすると
何が言いたいんだろう?
と思う。
ほんとうにそう思って言ってんのかな、とか、
自分の言葉でちゃんと言ってくれればいいのにな、とか。
そんなときと似た感情を、ずっと抱いています。
報道の裏を読む、メディアは真実を伝えていない
という物の見方は、普段は嫌いなのですが
まぁ今回はさすがにそれもあるんでしょうね
と感じざるを得ない。
そして伝える側のそのジレンマのようなものも
にじみでていますし、報道に対する怒りも
ほんとうにたくさん感じる。
そして真実はコレです的なものも
次から次へと出てくるんですけど、
それに対して情報を精査してかみ砕いて頭に入れる
という行動をするだけでも大変です。
結果、伝える側も起きていることを
取って出しみたいな感じで報道していて未消化だったり、
伝えている側が意味もよく分からずに伝えているものとかが
いっぱいあって、それらがくだらなかったら
どうでもいいんですが、ものすごく重要だから
読んだり見たりしないといけない。
でも、吐き出すように出てくる言葉とか、
怒りまじりでぶつけてくる言葉とか、
余裕のない人に付き合うのは大変で、
それもしんどいことです。
バラエティーが復活して、どこか心が癒されるのは
笑いが戻って来たからだけじゃなくて、
きちんと作り手の手がかかったものであって、
伝えるべきことを理解して伝えられているからじゃ
ないでしょうか。
笑いが人の心をやわらげるのは
起きた事実を自分の中に受け入れて
それを消化している度量がある人たちがいること、
ドッキリや舞台の面白さでも
それを客観視しているからでもあるんじゃないかな
とも感じます。
「最大の理性とは、すべてを笑い飛ばす力である」
という言葉もあります。
そうしていろいろと自分と情報や言葉との関わりについて
振り返ってみて
そうか、全体的にいろいろと
少なくとも自分としては
しんどいと感じるようなことをしているんだ
と分かってからは、だいぶ楽になりました。
それにしても本当にだめな奴だな とも思います。
なんでしょう、この打たれ弱さは。
でも、打たれ弱いのにニュースや現状と向きあって
打ちのめされて自分のダメさ加減を悔いていたり
それを苦にして病んだりして
仕事相手や家族に迷惑をかけるよりは、
バカで情報弱者でも私が私にできる仕事を
していたほうがいいのかなとも思います。
家族や仕事で逢う人や文章を読んでくれた人を
暗い気持ちにさせるよりは、明るい気持ちにさせたい。
何より、わたしは未消化な言葉を世界に吐き出したくない。
感情的で余裕のない自分をわざわざ人にさらしたくもない。
黙っていること、思っていることを語らないのが
ダメな人間ならば、
いまはダメな自分であろうと思います。
寄付したり物資を運んだり、行動する方は偉いと素直に感じます。
売名とか言われてもそれは力と余裕がなくてはできないことで、
そのエネルギーを良い形で使っている方を尊敬します。
自分も少しだけですが動きました。
ダメなりに今後も自分がいいと思うことをやります。
かならず。