2012年01月31日

親指シフトのリズム

ずいぶん前に親指シフトのことを書きました。

親指シフトを始めてみる

あれから2年弱、
少し打っては仕事に追われて休み
また気が向くとやる といった
非常に効率の悪い方法で続けてました。

しばらーくやっていなかった昨年末に
最近になって親指シフトを開始したという
ブログのエントリーを拝見したのをきっかけに
また、はじめてみました。

継続の効果か、多少打てるように
なってきて。
いまは家で原稿を打つ場合の
できるだけ多くを親指打ちに
きりかえています。

先日、40分くらいのテープ起こしを1本
親指シフトで打ち切ることに成功。
おつかれ私。

スピードでいうと、まだまだ
ローマ字打ちのほうが早いです。

親指シフトは、おやりになっている層に
どうもこの手法に強いこだわりのある方が
多いせいか、意見などを検索してみると
とにかく打ちやすくて疲れない、
日本語打ちには最高 といった意見が
かなり多いように感じます。

現時点、ホームポジションの列のキーは
ほぼ打てるものの、モニター前に貼ってある一覧表が
まだはずせない というレベルの
私のスピードですと、
ほんとに正直な現時点の気持ちでは
習得の難しさと利便性を考えると
うーーん……です。
自分より年上の人には薦めない。

ただ、手は疲れなくなりました。
というか、疲れが分散している。
いちばん守りたい右手の小指下
(腱鞘炎はここが痛むのです)とか
手のひらは楽になりました。
その分左手が頑張ってくれているのを感じます。
そこが始めた一番の目的なので
助かってます。

いちばん不満というかストレスなのは
「自分のキータッチの音」
だったりします。

私の場合ローマ字でのキータッチそのものは
かなり早いほうだと思いますが、
親指シフトさんからすると、無駄な
キーをたくさん打っているあの音、
カタカタカタカタカタカタカタカタ という
あの早いリズムが、自分の気持ちを
煽ってくれていたんだな と
気づいたのですね。

文章を書くときってリズムや
ペースが大事なんだな、と思った。
キーの音は、どんなBGMかけてたって
自分に聞こえるので、
影響はけっこう大きい。

いまはそんなに早く打てないので
自分で自分がじれったくなってしまう。

このリズムの変化は、いいものなのか
どうなのかまだ分かりません。
急に長年なじんだのと違う曲で
踊っているダンサーのようなもので
新しいリズムは、まだ自分には不快なんですけど、
ローマ字に変換しないで打てるという
感覚が染みつくことでどう変わるのか。

怒りがこもったような感情的な文章を
あえて書きたいときなんかには
ローマ字打ちのリズムが
しっくりきそうです。
posted by ささきぃ at 00:39| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月18日

柔道事故のニュースについて、少し調べてみました

昼間、重めのルポをがっつり読んだ影響で
今日はちょっと深刻な気分です。
いまの自分じゃなきゃ読む気にならなかった本で
読んで良かったとも思っていますが
読み終わったあと著者が同い年と知って
違う意味で自分にズシンと響きました。

そのルポについては後日書きますが
今日はまた別な、これもまた深刻な話について。

きょうの読売新聞の記事です。
「中高生114人、柔道で死亡していた」

28年で114人ですから、
学校の柔道、部活や授業で
1年に4人ずつ生徒が亡くなっている。

こういう状況下の中で
今年から柔道が必修科目となる。

で、私は漠然と
柔道というのはそうした危険をはらむスポーツ
なのではないか、と考えていたところが
あったんですけども、

日本の約3倍の柔道人口を持つフランスでは
日本ほど高い確率での死亡事故は起きていない
ようなんですね。

全国柔道事故被害者の会 海外の柔道事故による死亡者数調査


JanJanBlog 学校での柔道死亡事故を考える

上記記事によると
日本の柔道人口は約21万人、
フランスの柔道人口は60万人弱。
人口の比率からすると、フランスの競技人口は
日本の約6倍といえる。

「柔道はもともと危険なスポーツ」
なのだとしたら、海外でも同様の事故が
起きているはずです。

でも、そうじゃないとしたら
どうしてなのか?

わたしは中学でも高校でも
授業で柔道をやったことはないです。
高校では選択であったような気がしますが
選びませんでした。

(当時はプロレスにも格闘技にも
 いっさい興味がなかったです。
 あと、わたしはもともと
 運動が嫌いな文系人間です)

個人の意見で言えば、
柔道が導入されることそのものは
べつに悪いことじゃないと思います。

ただいまのままだと正直不安ですし
前述のフランスでは柔道の指導者は
国家資格が必要になるそうなので、
じっさいにここまで事故が起きている以上、
どの程度の資格でどの程度まで管轄させるのかという
線引きは必要なんじゃないのかなとは感じます。

柔道の練習はイコール乱取りではないと思いますし
礼儀や精神はそこまでしないと教えられないわけでも
ないでしょうし、学校の授業でそこまでやる必要は
ないんじゃないのか、と。

(この問題が具体的に制度化されたら
 格闘技ジムの指導などにも
 当然かかわってくると思います)

昨日も、こういう柔道の記事が出ましたが

「愛知の柔道教員、6日で黒帯・・・30年間全員合格」


どちらも読売新聞ですね。
連日ですね。

黒帯ってそういうものじゃないと思う。
こういう場合は認定指導員とかの
資格でいいんじゃないのかな。

海外でまったく死亡事故が起きていない
ということを主張したいわけではありませんし、
上の記事の狙いもそうではないと思います。

ただ、もし突出して日本が多いのだとしたら
なんらかの策が取れるのではないか、
今後事故が減らせるのではないか、
と思うのです。
わたしは柔道で中高生に亡くなって欲しくない。

これは1月9日の記事。別の媒体ですが。

子供の柔道事故に懸念 国際ニュース:AFPBB News

こちらでは、フランス柔道連盟の会長が電話取材に応えて
「フランスでの柔道の死亡事故は聞いた事がない」
と語っていらっしゃいます。

「フランスでは家族全員が柔道をすることができる」
・・・ってホントに?
というかどういう意味だろう?
そのくらいポピュラーなスポーツという意味?

フランスのほうが柔道人口がはるかに多い
というのも、今回の記事を書くさいに
はじめて知っておどろきました。

また、今回の記事に限らず
誤りや誤情報が後に分かったら訂正しますので
お知らせ下されば幸いです。
posted by ささきぃ at 00:37| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月07日

アクセスアップのための文章

インターネットに配信されるニュースは
どうも見出しが先鋭的というか
過激なものになりがちです。

かつてオウム真理教の連日報道で
ワイドショーも新聞もこぞってどうかしていた時

「すべての新聞のスポーツ新聞化、
 すべてのスポーツ新聞の東スポ化、
 そして東スポだけが何も変わらず」

という名言を残した方がいらしたそうですが
その言葉はまさにいまの
ネット上の新聞の報道を表しているように思われます。

ネットの特徴は言うまでもなく
アクセス数がダイレクトに出ることで、
「数字が出る」っていうことに
とらわれてしまうと
あっというまに発信する側としてのモラルや
積み上げてきた権威とかぶっ壊れます。

そして、例えば権威ある新聞や媒体が
ネットでのサービスをはじめたとして、
そのシステム部分を受け持っているのは
若い会社であるということもよくあることですね。

システムの側からしたら数字が取れれば
広告も取れるわけで、
その立場からしてみれば、中にいいこと書いて有るか
なんてどうでもよくて、祭りであっても
数字が取れれば「いい記事」になります。

数字が取れる、反応がすごい
という言葉は非常にスイートな味がするでしょうが
それに載っかって自分が積み上げてきたものを
ぶちこわしてしまうのは
ちょっとリスク大きすぎるような気がします。

そこまでいかなくても
ネットの文章というのは
どうしてもそうした激しいものというか
見る側を煽る物
もしくはダラダラ全部流すもの の
どちらかになりがちで、
ほぼ全体において校正が甘いので
意識しないと日本語はどんどん崩れていくな
と思いました。

日本語全体の問題だけじゃなくて自分自身
意識せずに流されて、ツイッターだけやって
その場その場の反応だけして、結局自分が書いた文章
というのが(仕事でやったもの以外で)残っていないし
書いているのに文章力もついていない
なんていうのは嫌だなと思って
今年はこうしてマメな更新をしたり
しているわけです。

マメにツイッターやったって
基本そうとうなネタを投下しない限り
知っている人以外には届くことは
ありませんしね。

ギリギリながらもなんとか1週間続きました。

基本的に平日は毎日
土日祝はお休み
という、お役所仕事的な更新を
まずはめざしたいと思います。

posted by ささきぃ at 23:57| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

「いい試合」はなぜ記事にならないのか

プロレスや格闘技を会場に観に行った後というのは
気分が高揚しているものです。

観戦後、自分が行った大会や試合が
どんなふうにメディアで取り上げられているか、
それを確認するのもまた
ライブで同じ時間を過ごした人の
楽しみではないでしょうか。

ただ

「あんなに会場が沸いた、あんなにいい試合よりも
 どうして、試合後のコメントのほうが
 大きく取り上げられているのだろう」

などと、思ったことはないでしょうか。

もしくは

「どうして、毎日のように行われている
 面白い試合や大会を取り上げずに
 事件のときだけ、こうも
 大きく取り上げられてしまうのだろう」

と、ため息をついたことはないですか。

私はあります。

私は伝える側にいて、
携帯サイトではありますが、ニュースの
大きさ(トップニュースにするべき記事)を
自分がコントロールする立場だった
ことも一時期あります。

でも、とくに伝える仕事を始めた初期の頃は、
実際に行われた試合よりも
会見場の言葉や舌戦のほうが
大きく取り上げられる現実を前に
なんともやるせない気持ちになったものでした。

仕事を続けていく中で
そういうものだ、仕方ないのだ
と自分に折り合いをつけていましたが、
伝える側として、あいまいな理解のままでは
いけないとも思っていました。

多分、それはシャープに言葉にできる
現実のはずだ とも感じて居たからです。

同時に、読む側の人たちから

「どうして、試合よりも
 試合以外のゴタゴタとかばかりが
 新聞に載っていたりするんですか」

と、聞かれたことが何度もあります。
そのたび私は

「それは○○新聞さんに聞いてください」

と、返答していました。
雑誌名を出して聞かれたことも何回もありますが
同じように答えています。

本当にそうだからなのですが
そう答えるたびに、スッキリしないものを
感じてもいました。

たいてい、そういうことを聞かれるときは
立ち話とかのタイミングなので
長い話をしてきちんとスタンスを説明する
ヒマもないので、そう答えるのが
ベストだというのが私の考えだったからですが、

聞いてくる側の人たちに
怒りや、やるせなさが混じっているのも
分かっていましたし、

実際に何を言うかは別として
自分の中にその答えを見つけていなきゃいけない、と
自問自答も続けていました。

聞いてくる側の人たちの
うっぷんは、そのまま受けたら
けっこうつらいくらいの大きいものであることが
往々にしてありました。

私にそういったことを聞いてきた方たちには
すかして対応してると思われてたでしょうけど、
実際そうですけど、
そうして対応しないとこわかったです。

選手や競技のファンだったらそうだろうな、とは
理解できるのですが、
同時に、そこまで責められるようなことを
伝える側がしているものだろうか
という疑問もありました。

続けていく中で、その答えが
なんとなく自分の中で掴めるようになりました。

それはいつしか当たり前のこととして
私の中のルールにもなりました。

もっとうまく説明できる人も
いるでしょうが、私なりの言葉で
その説明をしてみます。

そのルールを知っているかいないか で、
報道に対する読み手としてのストレスは
だいぶ、緩和されると思うからです。

とくに、最初に書いたような疑問を
抱いたことのある人なら
今後は、そういったため息を
小さくできるかもしれません。

---------------------------------------

「どうして、試合よりも
 試合以外のゴタゴタとかばかりが
 新聞に載っていたりするんですか」

という問いに対して、丁寧に回答してみます。

なぜ記事にならないのかを考える前提として
なぜ記事になるのか を考えてみます。

プロレスや格闘技が取り上げられるときは
たいてい、試合結果や
試合カードの決定などの
「ニュース」として、伝えられます。

だからこそ「あんなにいい試合だったのに」
というストレスも産まれるのでしょうが

ニュースとは何なのか。

「新しく一般にはまだ知られていないできごとや情報」
「新聞・ラジオ・テレビなどでの報道」

です。(デジタル大辞泉より)

じゃあ、報道とは何か。

「告げ知らせること。また、その内容。報知」
「新聞・ラジオ・テレビなどを通して、
 社会の出来事などを広く一般に知らせること。
 また、その知らせ。ニュース」

です。(デジタル大辞泉より)

ガシャッと結論を言ってしまえば

・「いい試合」は別に、ニュースじゃない

から、記事にならないのです。

じゃあ、何がニュースになるのか、
といえば、代表的なものが事件です。

事件とは何か。

「世間が話題にするような出来事。問題となる出来事」
「訴訟事件の略」

です。(デジタル大辞泉より)

訴訟事件、についてはあまり関係がないので外しますが、
問題となる出来事、もしくは前出の「ニュース」の意味にあった、
「新しく一般にはまだ知られていないできごと」
であれば、ニュースになる。

タイトルマッチだったりして、ベルトが動いた、
となれば、事件もしくはニュースになるわけです。

だから多分、団体の側は
タイトルマッチに大切な試合をぶつけてきますし
タイトルマッチにつながる試合を大切にします。

もっと言えば
仕掛けのうまい団体さんとかは
きっと、大会そのものが「事件」であり
「(世間が話題にするような or 問題となる)出来事」となるような
取り組みを行ってくるのでしょう。
報道しなくてはいけない、という理由を
前もって作るわけです。

固い内容のタイトルマッチだけが掲載されていて
すごくいい試合のアンダーカードが
まったく報道されていなくて、がっかりした
という経験がある方には、
まずは、そういうことなのです。

そして、残念なことですが、
死亡事故や暴行事故などばかりが
報道されてしまうのも、この理由です。

普段、まっとうに試合が行われていて
まっとうにお客さんが楽しんでいる
というなら、それは良かったね ということであって、
べつに報道することではない のです。
少なくとも、それはニュース媒体や
速報性を重んじる媒体のすることでは
ないのです。

さて、
「いい試合」とはそもそもなんなのか、
について。

もしくは、それでも伝えたいと思った側の
苦肉の策、としてといったようなことも
書いてみたいのですが、

たいへん長くなりましたので、また今度書きます。
posted by ささきぃ at 02:12| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月26日

七転びライター

震災後、意識的に文章を書かないでいたときがありました。
ちょっと慎重になろう と。
うかつなこと書いてる人いっぱい見ましたし
自粛ムードもありますし
さまざまな立場の人が読んでいるということを考えると
なにも書く気になれなかったのもほんとうで。

書かないぶんどうしていたかというと
思ったことを全部ためこんで
ノートに書いたりもしていましたが
やっぱ頭が重い感じがするというか
面白いことがあったら伝えたい
という気持ちは、おさまらなかった。

おそるおそる という感じで
ツイッターでぽつぽつと書き始めて、
どうでもいいことを書いていくうちに
元気になっている自分にも気づきました。

あ、やっぱり私は書いたほうがいいんだ と。

たぶんこのブログを読んでいる方には
何をいまさら言ってやがる、おまえライターだろ
と思われたでしょうけれども
ようやく自分でもそう思えたのでした。

先日も書きましたが、いまは
格闘技のライターもするし、プロレスのことも
もちろん書くし、他のライティングも
するし、インタビューもするし、
テープ起こしもやったりするし、
企業向けのHPのライティングとかもします。

あんまり家にこもっていると
精神衛生上よくないということもわかったので
もう一度編集の仕事にも関わることにしました。

編集っていう作業について
ちがう媒体でちがう形で、
ライター佐々木亜希としてじゃなくて、
ただの使われる人として
もう一度、関わり直してみたかった。

フリーになったばかりのころも
やっぱり1日に何時間かは、ウェブの勉強を兼ねて
バイトに行っていたわけですが、
その頃の感じと似ています。

ぜんっぜん今までやっていたことと違うジャンルなので
ライター仕事とは違う脳を使っている感じがあります。

そのころもそうですが、今回も
30をすぎて、仕事(ソフトの使い方なども)を
教えてもらう機会にめぐまれた自分は、
ラッキーだと思います。

昨年が単行本の年だったとしたら
いまはあれこれ考えず
働けるうちは働くぜ 
持ってる武器磨き直すぜ という路線です。

仕事は自分で完全にコントロールできるものでも
ないですが、やるからには状況を見てうまく動かなきゃ、
みたいな気持ちと、いま、日本中が大変なことになっている中で
家族がいて働ける環境があるというだけで十分だ、
なにが何割とかどうでもいいじゃないか、
という気持ちの両方があります。

はっきりした答えなんて分からないけど
そういう状態でもできることはある
というのは、わかっているので、
その力を、しっかり使いたいと思います。
posted by ささきぃ at 03:15| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月24日

燃え尽きライター

昨年10月に「殴る女たち」を出させていただいて
さて今後どうしようかと考えたのですよ。

ライターをやる上で本を出すというのは
目標だったので、それが叶うまでは
とにかく頑張ろうと思っていた。

内容はとにかく一切後悔しないようにやりきったし
その後、サイン会をやらせていただいたり
大会で物販のブースに立ったりして
それで全部の力を出し切った感があったのですよ。

少し休みたいなというか
これからどうしよう みたいなことを考えていたら

出し切り過ぎて次に何をやっていいのか
わかんない状態になったんですね。
燃え尽き症候群というのにはじめてなりました。
真っっっっっっっ白でした。

もちろん続編は出したいですが
それは自分の頑張りだけでかなうことでもないので
さぁどうしようと。

本を出すという目標がかなったことで
そこから先はとにかく叶えたいという目標も
消えたので、
そこから、今後の自分の人生というか
生き方みたいなものを考えて
職業としてのライターに、どう付き合っていこうかと
考えたのです。

それで、そういえば自分のかなわなかったことが
ひとつあった と。

すぐに子供を生んだりしなくても
もしかして生まない人生だったとしても
後悔しないようには生きていきたい。

仕事の上での目標はすぐには見えないけれど
格闘技以外の仕事もしてみるというのは
どちらの場合でも後悔する選択じゃない。

だとしたら、自分の世界を広げる努力はしておこう と。

格闘技の本で出し切っちゃった結果、
格闘技ライターの割合が減るというのは、
はたから見ればおかしな話です。

でも私自身、本を出した後の自分が
どうなるかというのが、まったく見えてなかったし
まったく想像もできなかったんです。

ただ書いたことで自由に書けるようになったのは確か。
自由に書けるようになったということで
自分自身がどうしたいのか
考える機会になったというのも確か。

結果、ほかのジャンルのことも書いてみたいと
思うようにもなった。
いっぱいいろんな人に会いたいと思いましたし
自分は他にどういうものが書けるのか、書けないのか、
試してみたくなった。
まだ自分じゃ気づいていないけど
できることがあるのかもしれない。

書くことはずっと自分のそばにあるだろうけど
仕事としての書くこと、は
まだまだ掘り下げていけるはずじゃないのか。

そう思ったのです。
posted by ささきぃ at 01:02| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月23日

2割ライター

最近の私はプロレスや格闘技以外の仕事が増えてきています。

フリーになってからずっと
基本はなんでもライターで、ただその割合の多くが
プロレスや格闘技のことだった というスタンスでは
あったんですが、最近はすっかりそれが
逆転した感。

2月はパンフレットを作ったり
インタビューをしたりしたので
半々くらいになっていたかもしれないですが
他の月は8割は他の仕事です。

べつに嫌いになったとかそういうわけではないですし
私がそうしているからといって
プロレスや格闘技の業界はやっぱり食えないんだ とか
言って欲しくない。

単純に、いまの私は結婚していて、
近い将来子供を産んで育てる生活になる
ということを考えたとき、
プロレスと格闘技のライターだけをメインにしていたら
成り立たなくなるなぁと思ったから
そうでない仕事を多く受けるようにしよう
違う仕事にもチャレンジするとしたら今だろう
と考えたわけです。

なぜ成り立たなくなるのか といえば
これも私の考えですけど、
プロレスと格闘技のことを書くんだったら
大会なり記者会見なりにマメに顔を出さなくちゃ
状況に即したもの、自信持ってお出しできるものは書けないし、
そこを他のもの(これまで見てきた歴史とか)で
カバーするには、自分は全然足りないと思ったのです。

もちろん、その書き手さんの能力で
見ていなくても面白いものを書くことが
できる人もいるでしょうが
自分は、現場で見たものを速報なりなんなりで仕事にしたり
その上でさらに生まれてきたものを
自分なりに書いたりしてくることで
ライターとして成り立たせていたので、
妊娠したら外に出る回数が制限されるのは
経験上分かっていますし、(実際全然仕事できませんでした)
生まれた後はさらに外に出づらくなるのは想像できます。

ずっと見てきたということで
他の人より少し詳しい団体やジャンルもありますけど、
多分、自分の活動からしたら
その団体やジャンルをギリギリ追いかけているだけで
精一杯になるでしょうし、
そこを追いかけているだけで生計は成り立たないし、
成り立ったとしても、そこだけで成り立たせてたら
自分がそこに対して還元できるものはすごく少なくなってしまう。

ライフワークとしてそれらを追いかけていくにしても
そこだけではダメで、
かといって格闘技全般を広く見知って追いかけていって
お金になったとしても、ごく近い将来子供を持ったら
またそこから一度道をはずれなきゃいけなくなる。

だとしたらもう少し
家でできるライターの仕事を増やしたほうが
今後につながるのではないか。
お金にならなくても書くことは続けていくにしても
他の仕事をする道を
みつけてもいいのではないか。

ライターという仕事に限らず
出産後、仕事に復帰したかったら
いま、いろんな仕事をやって実績を作っておかないと
仕事には戻れなくなる。

そういうことを考えたわけです。

もちろん、私がフリーになった数年前と比べて
大会の数が減っているのは事実ですし、
そうなれば当然、速報の仕事をする機会が減るのも事実です。

ただ、そういう仕事があるときに
個人的な事情で断ってきたのも事実なのですよ。
プロレスや格闘技の現状というものと
まったく関係がないわけじゃない、とは思いますが
そうした個人的な理由なんですよ。

それと、前ほどやってないとはいえ
プロレスの仕事も格闘技の仕事もやらせていただいていますよ。
やらせていただいています が
あんまり仕事してないように見えるとしたら
そうした理由からなんです。

サボってるわけでも嫌いになったからでもないです。
posted by ささきぃ at 04:01| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月21日

岡田斗司夫ノート術講義へ行ってきました〜ノート術とは(その1)

文藝春秋社で行われた、岡田斗司夫さんの
ノート術講義イベントへ行ってきました。

以前のブログで、ノート術の動画を見たことを書きましたが、
ノートにまつわる話が好きなのと、岡田さんが提案しているノート術は
かなり面白そうだと興味があったのと、両方からです。

仕事柄メモを取ることも多く、また個人的に日記を書いたりも
しているし(ブログとは別です)、ノートの取り方系の本とか
雑誌の手帳の特集とかが大好きなので、多分、前提として
こういう話には入りやすいタイプ だとは思います。

岡田斗司夫さんのノート術=オカダノート術については、
テキストでまとめられた文献はいまのところないようです。

(「岡田斗司夫 ノート術」などで検索すると、
 動画の内容をまとめたブログなどが出てきますので、
 参考になると思います。ただ個人の方のブログなので
 リンクを張ることはしません)

講義の話や動画で話されたことからさらに加筆して
文春から本が出るようです。

なので今のところの資料は動画のみで コチラ

講義の話と動画で見た話と、ごっちゃになりつつ私的にまとめてみます。

「なんのために書くか?」
・頭で悩んでいることを、ノートに書くことで客観性が持てる
・自分の脳のバックアップをつくる
・ノート術を用いることで、ラクになれる
・さらにその段階が進むと、頭が良くなる
・さらに進んでいくと、面白くなる

岡田さん自身は、まず手帳に起きたことを書くことからスタートし、
しだいに自分の悩みを(「なぜ本が売れないのか」とか)書き出して
それをノートの上で考えるという行為をしてきたそうです。

講義では実際にノートも見せてもらえました。
内容もそうですが、人が試行錯誤してきた軌跡を見せてもらうというのは
おもしろく、贅沢ですね。

上に書いた「なんのために書くか?」をもう少し掘り下げていくと、

ラクになる→人にとって地獄といえるくらいつらいのは、
悩んでいる状態で、同じことをずっと考え続けること。

そうならないために、まずは問題をノートに書き出してみる。
たとえば「ぼくの本が売れない」と書いてみる。
重いテーマです。

それに対して「なぜ?」という問いを3回、掘り下げてみる。
さらに「どうして?」という問いも、3回、上に積み上げてみる。

たとえば上のテーマ、売れない理由には
「世界が悪い」「今まで売れていたのがおかしい」「本が売れない時代だから」
などと発展させてみる。

そこから「どうして?」

ここでのポイントは「論理が間違っていてもいい」。
要は、悩みを頭の中でお手玉させているのではなく、
ノートという紙の上で、ある種他人事としていじっていく。

ここまではよくあることというか、多かれ少なかれ
誰しもやったりするのですが
講義で聴けて面白かったのは、これをやる理由。

この行為の目的は
「つらい」とか「悩みがある」、「気になることがある」という
感情の状態に対して、どう割り切って付き合っていくか。
その、割り切り方=自分の中の論理 を育てていくという行為
なのだという。

つづきます。
posted by ささきぃ at 01:16| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

岡田斗司夫ノート術講義へ行ってきました〜ノートで夢がかなうのか(その2)

すこし話は飛んで
よくある手帳術のパターンが
「手帳に夢を書く」というやつで、私個人は
ずっとそれを疑ってきました。

「年収5000万円」とかの大目標を書いて、それが実現するように
小目標の形にくだいて、実現できる形にしてスケジュールに入れていく
というのがその方法の主たるところなのですが
多分、ライターになった時点で私は夢を失っているというか、
いってしまえば夢の中なので、
あとは目標というか、やるべきことがあるだけであって、
書いたところでかなわないこともあるという
残念なことも知っているので、書いたところでしょうがない
と感じています。

むしろ、書くことがあるとしたらそれは企画書の下書きだったり、
アイデアのネタ出しだったり、頭にボンヤリあるアイデアを
メモっておいたりするようなことのほうが重要なので、
手帳で夢をかなえるとか言われると、自分にはいらない
手帳だなと思っていました。

講義後のQ&Aでも出た話なのですが、
岡田さん自身、学生を指導する立場にあって
そういう学生に夢を書かせたら、アニメーターになりたいとか
歌手になりたいとかいう、難易度の高い夢がたくさん出てくるんですが、
学生が200人いたらその中から本当にその夢を叶えられるのは
数人出るか出ないかという状態、という様を見ているので、
「難易度の高い目標を持っている場合はあてはまらない」
という結論を出してらっしゃった。これはとても面白かった。

それよりも「目先にある感情をどう整理するかのほうが大事」。

私の例で言えば、私はなりたかった仕事についているわけだから、
さくさくと仕事をしていればいいわけですね。
それこそが夢実現への第一歩なわけですね。

ただ実際の私は、こういう状況でこういうことを考える自分は
おかしいのだろうかとか、あの人はいったいどういうつもりで
こういうメールをよこしたのだろうかとかの
そういう、どうしようもない感情にとらわれて動けなくなったり、
もしくは、何か企画を考えなきゃと思って
ボーッとウィキペディアやスポーツナビを見ていたりするわけですね。

考えすぎて34年の私ですから、多少はそういう自分との
やりくりの仕方は身につけています。
オカダノート術の説明を聞いていて、
あぁ、そういうやりくりの方法のひとつを教えているのだな、
と思いました。

そしてもうひとつオカダノート術のポイントが
「頭を工場じゃなくて、農地として考える」。
そのほうが悩んだりしたときにずっとラクになる。

浮かんでくるどうしようもない感情や
起きた事実を書きだしてみる。
それをノートの上で「なぜ?」や「どうして?」を繰り返して
耕したり栽培したりしてみる。
それを繰り返した結果が、ゆたかな土壌を作る。

ノート術としては、この段階に至るまでの前段階が
技術としてあるのですが、このあたりは動画の(05)あたりを
見たりしてください。(動画はココから)

つづきます。
posted by ささきぃ at 01:15| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

岡田斗司夫ノート術講義へ行ってきました〜歩き方を気にして歩けなくなるような(その3)

私のようなというのも何ですが
私のような文房具が好きなタイプ、
ノート自体を愛している人には
もしかしたら、かなり抵抗あるかなという気持ちがわきました。

というのも
ノート術で提唱されている形式が

「ノートを見開きで使う」
・右側にあったこと、考えたことなどなんでも書く
・なぜ?やどうして?もこちらに書く
・左側はそこから連想されることや図解を書いてみる
・書けなかったら左側は書かなくてもいい

というものなんですが

講義でも出てきたポイントですが、ノートを見開きで使って、
左側は書けなかったらあけておく
という行為自体が、けっこうというか、
かなり、ノート自体が好きな人にはきついんですね。
私にはきつい。

「東大生のノートは美しい」的な、ものの考え方とは
かなり相反するだろうなと思いました。

とにかく書いてみる、見返さないというポイントからも
オカダノート術からは、ノート自体に愛を持つんじゃなくて
書いてみるという行為を重要視しているんだろうなという
感じがしたのですね。

で、それは「ラクになる」とか「頭がよくなる」とか
「面白くなる」という目的から考えたら、
決して間違いじゃない。

頭がよくなるためには、ノートをキレイに書くことよりも
それこそ、武道家が突きや蹴りの練習を幾度繰り返したかというような
「実践」こそが大事なのであって、
書いたノートに愛を持つのはむしろマイナスだったりもする。

このへんは、私が気をつけようと思いました。

しかし
ノート術と同じ、岡田さんが提唱した
レコーディングダイエットの本、
「いつまでもデブと思うなよ」で気になった点が
いわゆる食べ物を捨てるというポイントだったりもする私です。

確かに、いらないものを食べて太るよりは
割り切って捨てたほうがいいのです。
しかし、それに対して「えっ」と思うのもまた本当です。

岡田さんのものの考え方というか、提唱方法には、
こういう身も蓋もない点が出てくるなと感じます。

しかし、私はじゃあ何を望んでいるかというと、
ノート術によって感情を処理したりしてラクになることだけでなく、
その方法というか、残るノートがいつ見返しても嬉しいような
美しいノートだったり、
ごはんを捨てるんじゃなくて、なんかエレガントな美しい方法で
デブを脱却して痩せることだったりするのですね。

そういう、それこそ夢みたいなこと言って動けなくなるんじゃなくて、
いわば虚を捨てて実を取るというか、
方法の部分を提唱しているのが、岡田さんのやり方なんだろうと感じました。

ノート術じたいも面白い方法なのですが、
こうして考えてみて、方法にがんじがらめになって動けなくなったり、
それこそ歩き出さずにいたりする自分に気づいたのが
大事な収穫かなと思います。

ノート術の本が出ることを楽しみに待ちたいです。

オタキングex ひとり夜話「ノート術」
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posted by ささきぃ at 01:13| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

私的ツイッター論その3〜飲み会の議論とツイッターの議論

ツイッター論その1はコチラ
その2はコチラです。できれば1,2を読んでから続きを読んでくださいまし。

続きを書くと言っていながら、もう2ヶ月以上経ってしまいました。
その2ヶ月の間にも、ずっとツイッターには接していて、
いろいろ考えさせられることに面してきました。

自分の経験にもとづいていくつか書いてみます。

飲み会ぽいなと思うのが、急に人と人のあるべき距離というか、
境界線を踏み越えて来る人に出会うことです。
具体的に言うと急にタメ口とか、急に意味のわからない質問とかです。
申し訳ないことに、面倒くさい性格をしている私なので、
最初の頃は、いちいち反論したり、
初対面もしくはろくに面識ない相手から
そういうモノの言い方されて怒らないわけねぇだろ、と
キレたりしていました。

あと、多分悪気はないのだろうとは思うのですけど、
すごく興味を持って下さっているゆえなのでしょうとは感じても
140字じゃ表現できない質問をされるのもちょっと困りました。
それはじっくり書こうと思っていることとかを聞かれても、
答えようがなかったりするし、安易に言葉を使いたくない。

ツイッターのいいところのひとつは、軽い会話を楽しめることだ、
と感じている私なので、重い会話はツイッターで、
したくないのですね。まして140字で重い話って出来ない。

そういうことで困ったときに、自分の基準になったのが
全部「飲み会だったらどうする?」でした。

飲み会で口げんかになったら空気が微妙になる。
ツイッターでも口げんかになるとTL(タイムライン)が微妙になる。
(本当になります)
飲み会でマジ切れしたところで、大人げないという話になる。

やったから言うんですけど、ツイッターでマジ議論したところで
なにも残らない。ほんと酒の席の議論と同じでした。
やってる時は「どんな場だろうと関係ねぇよ!」って気持ちで、
いわば私が私であるために言葉を尽くすのですが、
140字でそれを表現しようったって、無理な話なのですね。

140字=1回のツイートじゃおさまらなくて、だらだら続いたりするし、
それはそれで議論が面倒になるし、
できるだけ短く納めようとすると、自然と言葉が先鋭化してしまって、
よけいに人を刺激する言葉になったりもするし。
酒の勢いで言葉が滑るのと似ている感があります。

飲み会やツイッターでの議論は、他のお客さんやフォロワーがいるので、
見てる人が結果的にいなかったとしても、見られてる意識は抜けないし、
本当に心を開きあえるものでもないとも感じます。

そんな状況下で真剣に自分を分かってもらうとか求めるのがバカでした。
それは本来の自分の仕事であったり、直接のコミュニケーションで
やりゃいいんですね。
飲み会で自分100%分かってもらうとか言ってたらバカらしいですよね。

あと、ツイッターって
これも飲み会と同じで、そこで出会いがあったり、
盛り上がることはあっても、何か生み出すというわけでは
全然ないのですね。
当たり前だけどツイッターは場であって、
面白い話とか面白いツイートとかあれば一躍ヒーローになるけど、
それは飲み会で面白い大ネタ投下したのと変わらない。
あの日面白かったなと伝説にはなるかもですが、
伝説になるだけであって、たいていそれは結構な傷も負いますね。

だから申し訳ないけどツイッターでビジネスしようとしてる人には
飲み会で商売の話する人と同種のうさんくささ感じてます。
ここでそこまでやろうとすんなよ、みたいな感じ。
あなたの存在は知ったし、あなたが何をしようとしてるかも
分かったから、そこからは付き合いであったり、
商売なら他の場所でしましょうよという感じ。

無職で飲み会ばっか出たところで話すことがなくて
むなしくなるだけなので、やっぱ本業が充実してこその
ツイッターなのだ、と、反省コミで思いました。

前に「飲み会は報告の場」と書きましたが、
報告って、どうしても伝えなきゃいけないこと以外は、
楽しいこととか、聞いて欲しいことがあったときに
やるべきですよね。
愚痴を書けばそれなりに反応してもらえることもあるし、
私も人の書いた愚痴に反応することもあるし、
怒りを書きたくなることもあったけど、最近は意識して押さえました。

何書いてもいいと思うけど、やっぱ、不特定多数の人が
見ている場だし、いつ広まるか分からないし、
飲み会と違って言葉は残るのでね。

話してることが全部録音されてる飲み会って恐怖ですよね。
そうであってもそうでないようなふりをして不用意な感じで書く
という、わりと高度なことが求められるツールがツイッターです。
実際、ツイッターでのつぶやきは全部残されてると聞きますしね。

私が怒ってたり、人を批判したりしたら
多分それはそれで、そういう話が好きな人には面白いかもですが、
それだけなのでね。

言わなくてもいい話や言葉はあって、それをあえて出すのか出さないのか。
ウェブが出来て、字数の制限がほとんど無になって、
本来、出なかったはずの言葉が出てくるようになって、
ツイッターはそれを加速させてるので、
意見言うか言わないか、どんな言葉使うかは
もう個人のリミッターだけに任されてます。

だからこそ、面白いという人もいるかもですが、
読みたいのは本来出てこなかった業界の裏話とか、
しなくてもいいゆかいな報告とか、
あまり聞く機会がなかった自分の意見への協調や賛同だったり
するものであって、批判や愚痴ではけしてないはずです。

また、ツイッターのこわいところは、
飲み会と違って、「フォロワー」の数として、
自分個人の評価が数字でつくところです。
「人気」が数字で出てて、それが一般公開されてるって、
ちょっとあり得ない状況です。

「好感度No,1、というあのわけのわからないアンケート、
それが現代社会の象徴する欠乏の構造である。」というのは、
中島梓さんの言葉ですね。

一般の方でもフォロワー1万人とかいったら、それは、ちょっと
気が変になるというか、万能感みたいなのが出てきちゃっても
仕方ないのかなと感じますし、
仕事をしている方なら、それをビジネスにつなげようとするのも
当たり前だろうなと思います。
私だってブログ書いたり仕事したりしたら、
多くの人に見てもらいたいからツイッターに書きますし、
フォロワーが増えたら嬉しいです。

ただ、人の性格や言葉が、「人気」につながる数字に
左右されている様は、グロテスクだなと感じますし、
乙女みたいなことを言えば、内容の面白さで
フォローしてくれる人が増えて欲しいなと思います。

最後に、
ツイッターが面白いツールだとは私も思いますし、
今後も私はツイッターをやるでしょうけれども、
ツイッターはあくまで場であって、
本業がおろそかになっては何の意味もないし、
「本業」であったり、可能性を広げる場だったりするはずの
ブログやHPの、一次情報が軽んじられたりするのは
本末転倒だなと思います。

なんか、紹介したり自分を売り込んだりする
「場」だけが活性化して、出版は不況だったりするのって、
農家が困ってるのに広告代理店は潤ってる
みたいな感覚に、近いものを感じたりします。

むかし社会の時間に、第一次産業を大事に、
というようなことを習い、また今は社会人としてそれを実感したり
していますが、こういう業界でもそれをまた感じたりする
場面が来るとは。

でも、その本末転倒ぶりはあまり気づかれていないようにも
思います。まだしばらく、ツイッターが注目され、もてはやされる
時期は続くでしょう。それをネタにした本とか雑誌の特集も
まだまだ、あちらこちらで出るでしょう。誰もがツイッターをやるのが
当たり前になる時代が来たら、その時、もしかしたら
情報の第一次産業は壊れているかもしれない、という危惧が
私にはあります。

情報を発信するより、情報を紹介するほうが
反応もあって楽しいです。ただ、そればっかじゃ
しょうがねぇんだよと。説教みたいですけど、
むしろ自分を戒めるためにしっかり書いておきたい。

また、上記のようなことから、ツイッターでの議論はしないというか
むなしいと感じてる私なので、そういうことは、今は出来るだけ避けて
います。自分にとっての大事なことは、あまり書けないなと感じるのも、
飲み会で大事なこと言うときは周りの状況とかタイミング伺って
慎重に言うのと同じです。
だから、ふっかけられたなとか、それは安易に答えられないなと
思ったら、無視したり、流したりするでしょうけど、
それはそういう理由からです。
誤解でしたら、いつかお互いの誤解が解ける日もくるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ツイッター飲み会論はひとまず終了です。
ありがとうございました。

以下、蛇足ですが、先日、とある言葉のスペシャリティの方が
ツイッター上で言葉の使い方を、まぁ
ピアノで言えば運指を間違えた程度ですけど、誤解を受けて少し
感情的になられている様を見て、ツイッターってこえぇな、
と思いました。と同時に、私たちは、とても高度な
曲を演奏しているレベルで、言葉を扱っているんだなと
思いました。

掲示板は荒れるからやらない、というのはベーシックな意見ですが、
なんでツイッターだと結構安易にみんなやるんでしょうね。
多分、ツイッターは荒れないという常識があった時期はもう過ぎましたよね。
定期的に荒れるというか、狂う人がたまに出ますよね。

悪意でエロ広告流す人はいなくても、
善意で不用意に聞きたくない他人の言葉RTで流す人とか、
善意なのか悪意なのかわかんないけど人に意見して悦に入ってる人とか、
商売っ気でやたらURL貼り付けて連投する人とかはいます。
現実と同じでいくらでもいます。
またそういうのに私がひっかかるように、
私の発言が誰かの引っかかり(よくない方向で)になっているかも
しれません。気をつけていても。

疲れるならやらなきゃいいんですけど、
まぁ、楽しいときは楽しいのでね。
ただ飲み会と同じで、余裕あるときじゃないと出ちゃダメですよね。
余裕ないことが笑えるならまだしも。
余裕ないと受け流すことも、相手の意図を考えることもできない。

ツイッターも適当に楽しくやれたらいいですね。
いい飲み会がそうであるように。
posted by ささきぃ at 23:12| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月22日

「テキストの時代」〜後編

前編中編を読んだ上でお読みいただけるよう御願いします)

よく若者の活字離れが進んでいる、と言いますが、
私は、「活字」そのものの読む量は
前よりも増えていると思っています。

ただそれを「本」だけで読んでいたか
「ウェブサイト」「携帯」「メール」「ミクシィ」「ブログ」
など、あちらこちらで少しずつ読むか、
の違いじゃないのかなーと。
ゲームだって読ませる文章量半端ないですよね。

そうなってきたときに
さらに与えたい情報の伝達手段をどうするか。
そこで文章が表面的に敬遠されたので、動画が選ばれたのではないか、
と感じてます。

ただそこで、動画を選べるのは、ちょっと前だったら
確実に少数派だったはず。
大変だったはずですからね動画扱うの。

それが、ほんの1、2年で動画を扱うコストが限りなくゼロに近づいた。
結果、動画はプレミアなものではなく、
あって当たり前のものになったし、
むしろ、情報を発信する際の最初の選択肢にもなった。

動画が簡単に扱えるようになった、
という現状は、デジカメが出てきたことで
写真がわりと簡単に扱えるようになった、という状況に
似ているのではないかと思います。

それまではカメラマンさんだけしか扱えないものだった写真が、
ある程度までは、素人でも扱えるようになった。

写真がある程度、一般の人にも解放されたように、
動画もそういうものになる。

それを感じたのが、さきに書いた岡田斗司夫さんのように
「とりあえず世界に自分の考えを表明しておく」という形で、
動画を使う人が出てき始めた時だったというわけです。

プラス、もうひとつ時代を感じたのは
芸能人の方が独自に動画発信をしたりしてるのを見たときです。

ロンドンブーツ1号2号の敦さんが休日に面白いことをやろうと
「あつしの休日」をライブ配信したり、
オリエンタルラジオのあっちゃんが盗まれた自転車をライブで探してたり
(どっちもあっちゃんというのは何かの偶然なのか)
している様を、あれだけ仕事してて、エネルギーあんなぁ、
とあきれたり楽しんだりして観察しています。

昔は、テレビ以外のファンサービス的なことといえば
それこそファンクラブ会報ぐらいしかなかったのが
ブログが出てきて、ツイッターが出てきて、
さらには動画まで開放されつつある。

かつて、音楽雑誌の切り抜きを集め、
毎月発行と言いながら季節に1回くらいしか来やしねぇ
アーティストのファンクラブ会報を楽しみに待っていた世代としては、
時代は変わったなと感じざるを得ませんよ。

なんというか、売れてない人がやってるんじゃなくて、
売れてる人がさらに面白いことを求めてやってるわけなので、
そのくらいガツガツしないと本来いけないものかなぁと刺激されつつ
事務所大丈夫なのかなと勝手な心配もしたくなります。

(ひろゆき氏が書いていることは、革新派と
 既得権というポイントがあってさらに面白いです。
ひろゆき日記:ロンブー淳さんとavex松浦さんが面白いけど、心配な件。

情報の一次発信として、動画も安易に用いられるようになって、
「全おこし」を中心とした膨大な文字量もあふれるようになった背景には、
人件費という部分を背景にした不況の影響があると中編に書きました。

ただ、そこまで動画が広がったのに、
勝間さんとひろゆき氏の対談のときのように、
わざわざ文字起こしをする人がいるというのも、妙と言えば妙なことです。

削除される可能性があるというのももちろんありますが、
面白いと思ったことを、テキストで残しておこうと思うのは
なんなんでしょうね。妙な責任感ですよね。

選りすぐりの情報がさらにテキスト化されるという現状。

動画にしろ写真にしろ、
ウェブやデジカメの影響で、ここ数年で一気に価値が変化しました。

テキストはどうかといえば、テキストは
ワープロからパソコンになって、「コピペ」が出来るようになって、
ブログや掲示板が出来たときに、それこそ
「とりあえず発信」するコストはほぼゼロになりました。
写真や動画よりも早く、文字の価値は一気に落ちてた。

さきに書いたように、昔ならニュースにならなかったことも
ニュースとして世界に流れるようになった。
テキストだけじゃ差別化できないから、なら写真だ動画だと
手段が進化してきた。

一周して「やっぱりテキストの時代だよ」なのか、と。

動画にしろ、写真にしろ、文字の全起こしにしろ、
作る側の労力がかかる作業です。
作り手として「やった気」には、なる、ということです。

伝える側の具体的な話をすると、
過去、有り体に言うとヌルヌル会見とかで意図的に全起こしをやりました。
これは全文読みたいでしょうと思いました。

そうじゃないときにあんまりやりたくはない。単純に疲れるし。
「やった気」になるのが怖いのと、
「マニアは喜ぶ」とか言うけど、その言葉に甘えるのが怖いからです。

「マニアは喜ぶ」という言葉がまかり通る現代ですが、
以前は、その言葉を理由にしてざっくりしたものを世に出したとしても、
作り手の側の、本当は面白いんだぜという意志が入ってたような気がしますが、
最近は本当に、ただざっくりしたものをそう呼んでるのが多いように感じます。
それはマニアじゃなくて、ひまな人が喜んでるだけですし、
その言葉に甘えて未編集なものを世に出すのはどうなのか、と思ったりもします。

速報やライブ配信なら、まだやる意味はあるでしょうが、
配信する側の信頼性(=面白い情報を流す媒体という信頼)を思えば
安易にやるのはどうなのかなというのが個人的な考えです。

私が全起こしや「ダダ漏れ」に代表される動画配信があんまり好きじゃないのは、
面白い部分を見つける作業をユーザーに任せてるからです。
なんで、おまえのいいところをこっちが探さなきゃいけないんだ、と思うので、
見る側としてイヤです。
そういう甘えが成り立つのはファンと芸能人なら良いんでしょうが、
(さっきのロンブー淳氏の動画みたいなのはそういう意味で成立してるんでしょう)
いち社会人として、というか、広く伝えたいという意志があるなら、
もうちょっとしっかりしようよと見てて思ったりします。

動画じゃなくてテキストの時代、という文章を書き始めて、
動画のほうがインパクトありますよという意見もいくつかいただきましたが、
それはおそらく、編集された動画のことを言われているのだと思います。
「いいところ」をどこにするか、考えて作られた動画が
面白いのは当然だと思います。(つまんなかったらそれは作り手の問題)

速報としてひたすら文字打ちという作業を今でも私はやっていますが、
テキストの場合、全起こしにしても
どうしたって人の頭を一回通しているので、
必ず編集というフィルタリングは行われるんですね。

伝えるという意味だけの動画だったら、
まずいところを消すという以上には行われないと思うし、
動画である以上、人の時間を必ず固定で奪っていく抵抗感がある。
携帯で見られたりもするようになって、動画を見るための敷居は
だいぶ下がりましたが、それでも時間はかかります。

テキストの場合、人によりますが、
動画よりは確実に短いスピードで情報を得られます。

フリーになって仕事環境を考えたとき、
「紙よりもウェブのほうが絶対にチャンスは多い。
 ウェブや携帯で一次配信された文字が厳選されて紙になる」
ということを考えていたのですが、
動画が一次配信のツールとしてここまで安くなるとは
正直思ってませんでした。

テキストの時代、という言葉から感じた、
日頃のことをダラダラ書いてきました。

べつにそれは動画の時代が終了したわけじゃなくて
動画はあって当たり前のものになってしまったので、
もはや動画があるからと言って何の差別化にもならない。
むしろ安易な動画を発信していることで
逆にやった気になってないか、本当にそのリターンはあるのか
問い返してみないといけない現状がある。

だったら動画よりも、意志を持ったテキストを
短く打ち出すほうが効果が高いのではないか。

ウェブを中心に言葉があふれかえった今、
大事な言葉が大事じゃない局面で使われることも多くなりました。
もっともらしいことは誰にでも言えます。

ただ、どんな時代でも
そこに気持ちがこもってるかどうか、意志がこもってるかどうかは
なんとなく伝わりますし、
たくさんの情報を流しすぎることで、
逆に伝わらなくなることもありますし、
「いつも長く喋ってるだけで中身ない」と思われることもありますし、
媒体が「あそこの動画は長いだけで見る価値ない」と思われたら大変です。

デジカメにしろムービーカメラにしろ、
ブログにしろツイッターにしろyoutubeにしろ、
伝える側の技術が進化した結果、伝えることの中身は
ほんとに追いついてるのか。

伝えることを皿にのっけて客前に出すまでの敷居は下がったけど、
ほんとに食べてもらってるかどうかは微妙じゃないのか。

言いたいことはなんなのか、
発信するより前に自分へ問いかける作業が必要になっているんだけど、
その作業を支援するツールというのが
ノート術くらいしか生まれてないように見えるのが不思議です。

送り出す側の伝える意志と、問い返す作業が必要になった、ということ、
それはつまり「編集」というフィルタリングが求められている。
ただ流しただけで分かってもらえるというのは甘えで、
見てもらうためにもう少し頑張らなくてはいけなくなった、
ということ。

で、その「頑張らなくてはいけない」人は
以前は、マスコミや芸能人だけだったのが、
不況の影響と誰でもブログを持てる時代、
どんな企業も人集めといかに物を売るかで苦心している現状、
写真や動画を扱うハードルが低くなった現状で、
他人事ではなく、一般の人もそうだということです。

そして、動画が誰でも扱えるものになった今でも、
テキストの汎用性と利便性は何にも負けていないし、
むしろ受け手の許容量とハードルを考えたらテキストの力は本当に強い。
誰でも真剣に考えれば生み出せるはずの言葉、テキストの力というものを
もう一度考えてみてもいいんじゃないのか。

一次発信として動画が簡単に使えるようになった現状を理解した上で、
受け手の許容量を理解した、短く伝えられるテキストの時代が来ている。

という感じでなんとかまとまったかなと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ふう。
短く伝えられるテキストの時代が来ている、という結論に至るまでに、
なんと長いテキストが必要だったことでしょう。
と、セルフツッコミしときます。

考えてることを整理しながら書くのはめんどくさい。
でも、やりとげたかった。
考えてることをいちいち満足するまで考えて文章にしていく、
という作業を、
めんどくさくても、やっていこうと思っています。

「では、私たちがしていないことは? それは「考える」こと。情報を処理してはいるが、考えてはいない。2つは別物だ。」

ニューズウィーク日本版「iPadであなたはもっと馬鹿になる
の中の、ワンフレーズです。

いいタイトルですね。
本当はこうやってシャッキリ刺激的なこと書けないとダメなんだろうな。

目標は高く置こうと思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


以下は蛇足というか、発展編です。

1年前くらいに、取材対象への囲み取材時の話をしていたとき、
日本の記者はだいたいICレコーダーを使うけど
ここで動画撮影をするようにすれば、
撮った素材をもっといろんな形で利用できるようになる
という話を、同業者の方としていたのですね。

そのときは「へー、だけど起こしとかめんどくさくないんですかねー」
などと、ばかな受け答えをしていた私ですが、
今になってその意味が腑に落ちてきました。

違う言い方をすれば、一回の取材からいろんなお金のもとを産むように
動けないか、考えるということでもあります。
これは、自分のやっている仕事であり時間をいろんな形で生かす、
という意味で、すぐ取り入れなくても覚えておこうと思いました。
posted by ささきぃ at 17:13| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月19日

「テキストの時代」〜中編

(※前編を読んでから読んでください)

「これからはテキストの時代だよ」と、
堀江貴文さん、という、インターネットについては
それなりの見識を持っている方がそう言ってたことで、
あぁよかった、私ひとりじゃないんだ、
と、有名人と同じ意見で安心する、チキンな私です。

テキスト化してあることで、まず簡単に要点を拾える。
おおよそ、テキスト化するときに人は
要点を拾って大事なところを抜き出しますし、
遊び心のある人でしたら、その内容を面白くします。

そこで、テキストにした人のフィルタリングというか、
意志による情報の取捨選択は当然かかりますが、
そもそも、そのフィルタリングぶりが
メディアの売りだったはず。

それが、おそらくは不況の影響とかもあるのでしょう。
そして流すべき情報が多すぎるという点もあるのでしょう。
さらに、格闘技だけじゃなく、どんな企業もとにかく
自分のところを知ってもらう、顧客を増やすという大義のもと
いままではニュースにならないものも流れるようになった。
動画に限ったことじゃなく。
ウェブがそれを加速させてるのは確かですが、
ウェブに限ったことでもないと思います。

広告記事も当たり前のように出てきて、
さらには何かについて調べようとするたびに
つくりかけのブログみたいなのが出てきてキーッとなったりする。

情報がいつのまにやら「源泉かけ流し」みたいな状態で流れるだけじゃなく、
信用性が問われるようにもなった。

結果、一周して、この人が言うんだから信用できる、
この人が言うのだからそうなんだろう、
という、目利きの存在が求められるようにもなっている。

たまたま堀江さんの意見の引用がつづきますが、
週刊ダイヤモンドのツイッター特集号(2010.1.23号)で
津田大介さんとの対談で、

「僕がツイッターに求めているのはソーシャルフィルタリング
 なんですよね。ストレートニュースは入ってきて欲しくないんです。
 いったん『目利き』のフィルタリングを通して入ってきて欲しい」

と語っていらっしゃいました。

私がツイッターに感じている魅力も、
「この人が注目してるんだから、大きいことだな」とか、
「これだけ意見が続いているということは、こうなんだな」とかの
民意の波みたいなものに対する期待がひとつありもします。

ただ、ツイッターのタイムラインは自分で作れるものですから、
どうしたって自分と近い意見の人のものを拾いがちでもあるので
そこは注意しなくてはならないところです。
裸の王様になってしまう場合があるということです。

話がそれましたが、ツイッターもまさに「テキストの時代」らしい
ツールだったりもします。
140文字で言いたいことをまとめるってすごい訓練ですしね。
個々人が言いたいことを140文字にまとめたテキストが、
バーッと流れてくるわけですから、まさにテキストの時代。

圧倒的な文字量が求められたテキストの時代を経て、
動画の時代が来ている中、
次に来るのが「編集されたテキストの時代」というのが、
おもしろいなーと思ったのです。

私はライターで、テキストを自分の武器として選んだので、
どうしたってテキストびいきにはなるし、
動画をあまり見ないほうなので、偏った意見だとは思います。

その上でですが、動画じゃなきゃ伝わらないものというのが、
どのくらいあるのか、正直私にはよく分かりません。
動画じゃなくてもいいものが、動画で流れているというのが
現状じゃないかと思っています。

ただ、動画だったり、ポッドキャストだったりというものの強みは、
そのために時間を使わせることで、対象に対する
「親和性」が高くなるということじゃないかという気がしています。

親和性ってこういう局面で使う言葉じゃないとは思いますが、
対象に対して親しみが強くなる、好感度が高くなる、
距離が縮まったように感じる、みたいな意味あいを
他の物質と容易に結合する性質や傾向、という本来の意味に
かけて、字面で使っています。

時間をかけたものを、無駄だったとは誰も思いたくないから、
あえて動画にして、見させることが出来れば、多分ある程度
対象のことを深く知った気にさせられるだろうし、
好感度が高くなることも考えられるでしょう。

たとえダメ出ししながら動画を見たとしても、
それだけ対象のことを知った気にさせられる。

テキストの時代であったとしても、
その強みは多分失われることはないと思います。

もうひとつ、動画って
ものすごく何かを「やった気」になるツールでもありそうだな、
と思ってます。

絵と音がそろって演出できるソフトですから
そりゃ、文字だけのテキストなど、
インパクトとしては段違いでしょう。

伝えたいテーマがあるとして、
理解を得たい場合はテキスト、親和性を高めたい場合は動画、
という使い分けがひとつできそうですが、
ただ、動画をどう見せるかというところで、
誘導の場面にはどうしたってテキストがいりますよと。

増幅装置としての動画の威力、ライブで発信する動画の力に対して、
テキストは無力です。
ですが、その増幅させようとする力、ライブで発信される力の
威力を、うすうすみんな感じ始めてるのも事実でしょう。

受け取る側にも、受け止めきれるボリュームというのが
あるのです。
posted by ささきぃ at 11:21| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月18日

「テキストの時代」〜前編

GW中、勝間和代さんとひろゆき氏の対談、
および岡田斗司夫さんの「ノート術」についての動画を見てました。

岡田斗司夫のノート術

※勝間vsひろゆき動画は、私が見たやつは消されてたので
 適当に検索してみてください※

前者の対談は、2人のバトルが話題になっていたので
動画で、興味深く拝見いたしました。
こちらについては、勝間さんが対応を謝罪されたりしているので
もう別に何も言うことはないです。
(ツイッターではいろいろ書きました)
ノート術については、ノート好きな自分としては見逃せなかったので、がんばって見てみました。

ノート術についての動画というのは、岡田さんが独自に
続けている、ノートによる振り返りや思考術を解説していて、
これは私にとって非常に面白かったです。
おそらくノート術についてのメソッドというか、考え方が
岡田さんの中でしっかり固まっておられるのでしょう。

動画は、講演をカメラで撮ったものが分割されてアップされてました。
私個人はネットで動画を見る、ということを
あんまりやらない人間なので、見る前に
「すごくいい方法だけど、できれば動画じゃなくて
 テキストにまとまってほしかったな」
と思ってました。

しかし、見終わって、実際ノート術を本にする話も進行してる
ような文面を、岡田さんのブログで拝見した時に
「あぁそうか、テキストにまとめるとなると、
 岡田さん、もしくはこのメソッドを同等に理解している人の
 人件費がかかるわけか」
と気づきました。

で、GWが明けた6日に
ホリエモンこと堀江貴文氏が、
勝間さんとひろゆき氏の対談を、動画じゃなくて
文字おこしのテキストで見た、ということを
ブログに書いていたんですね。

六本木で働いていた元社長のアメブロ:ちょっと周回遅れ気味だけど、勝間さんとひろゆきの対談。

いわく、映像だと30分とか時間を取って見なくてはならない、それは
退屈すぎる。書き起こしたものなら数分で読めてしまう。
いわく「これからはやっぱテキストの時代だよ」と。

この言葉が、自分にとって結構響いたのでした。

自分の見識で言えば、
かつて「動画の時代」というのも、確実に
あったはずなのです。

私が知っているのはどうしても格闘技系の話になりますが、
携帯サイト含め、ニュースサイトがいっぱい生まれた頃、
とすると6年前くらいですか。
他との差別化の中で、プロレス格闘技系ではおそらく
最初はスポナビがやりはじめた
と思うのが「全おこし」というか、
とにかくコメント類を全部載せてしまう行為でした。

他のサイトも、地方大会の試合寸評とか、
それまでならスルーされるなり、載せられることなく終わってた
ものを、あえて全部載っけることによって
他との差別化をはかっていた。

それの何がいいかというと
「全部載ってる」ということのインパクトと、
あと編集に手間がかからないこと。

通常、コメントなり会見なりをニュースにするのは
「ニュース記事」にするという手間がかかります。
全文載せるのだったら、とにかく録音したものを起こせば
いいわけだから、記者の側に編集スキルが必要なくなる。

マニアの多いニュースサイトの場合(※格闘技に限ったことじゃなく)
記者の編集を、むしろ良しとしないというか、
いいから全部読みたいよという層が少なからずいたので、
この方法は受け入れられたのだと思います。

そして携帯やウェブで動画が見られるようになると、
今度は、サイトユーザーだけのオリジナルメッセージとかを
動画で配信するようになってきた。

で、それがサイトの「売り」になっていた時代が
確かにあったはず。

当時は、動画が扱えるのは専門の人だけだった。
youtubeの登場で、素人でもけっこう動画が扱えるようになって、
いまやiPhone等を使えば、ライブストリーミングは
誰でもできるようになった。

もちろんちゃんとした動画というか
編集された動画は、プロの手によるものじゃないといけませんが、
「とりあえず見られればいい」というレベルの動画なら、
流すためのコストは限りなくゼロに近づいた。

上に書いたように、会見やコメント全起こしというのは、
記者がひとり行って、録音して戻ってきて打ち込むだけ、の
一番人件費がかからない方法だったはずなんです。

でも動画なら、現場で撮影して戻ってきてしかるべき方法で
アップすればいい。
もしくは同時中継をウリにするなら、戻ってからのコストもかからない。

結果、テキストよりも動画のコストのほうがかからなくなっている。
何も伝えないことよりも、何かを伝えるなら、
いま、一番動画がてっとりばやい方法になっているのでは
ないだろうか。

というようなことを、「ノート術」の動画を見ていて感じました。

岡田さんのノート術は、確かに面白い方法なのですが、
それをキッチリテキストにまとめようとしたら、
岡田さん、もしくは岡田さんの方法を完璧に理解している人の
時間が必要になってくるわけです。

だけど、講演の動画をアップすることなら、
少なくとも岡田さんじゃなくても、機械に詳しい人ならできる。
公開すること、公開して理解されること、
その間に意見交換をしたりしてブラッシュアップしていくことは
できるわけです。

ただ、動画というのは伝える方法としてありがたいものなのかどうか。
どうも、かつて、動画を扱えるのは一部の人に限ったこと
だった時代の名残というか、
動画=すげぇ、と思わなくてはならないのではないか、
という、かすかな疑問が私にはありました。

私自身は、動画は恐るべき早さでこっちの時間を奪っていくと
思っているし(まぁネットサーフィンもそうですけど)、
未編集な動画って、見ていてほんとうにきつい。
すぐ「要点を言ってくれ」と思ってしまう。

ただ、それは自分が音楽以外の「ながら聞き」ができないのと、
私がテキスト好きなゆえだと思っていたのです。

そこで「これからはやっぱテキストの時代だよ」発言なわけです。

つづく。
posted by ささきぃ at 23:16| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月19日

私的ツイッター論その2〜飲み会の利点とツイッターの利点

昨日に続いて、ツイッターの話です。

「ツイッターは飲み会に近い」というのが昨日書いた私論ですが、
それをふまえた上で、なにが面白いのかをもう少し。
全部私の個人的な意見になりますが、それをふまえて読んでください。

実を言えば私はそんなに飲み会好きではないです。
あまり行かない方です。

最近になるまで「飲み会」という場の楽しみ方がよくわからない、と
ずっと感じていました。
気心の知れた人たちとの、少人数の飲み会は別ですよ。
そうじゃなくて大勢の飲み会。

話したい人がいれば行くけど、大勢のいる場で話したって、
話せるもんじゃないし、人がいる中で話すのって、割って入って
来る人もいて、結局話したいことも話せずに
面倒くさいことになることも多いし、
大勢いる席で自分たちだけ話すのってそもそもマナー違反にも感じるし。
聞かれたくないことを聞かれることも多いし。
人との出会いを楽しむとかいったって、別にそんなに
楽しむほど出会いたいわけじゃないでございますよ、
こちとら人みしりなんですよと。
あと帰る時間も難しかったりするし。
切り上げができずにだらだら話していたりするの苦手ですよ。

さんざん書きましたが、最近は
「そもそも飲み会に大きな期待をするのが間違っている」
という大前提が理解できたので、逆にだいぶ楽しめるようになりました。
たかだが飲み会にそんなに多くのことを求めるのが間違っていた。

要は参加するときに「送別会をする」とか「元気づける会をする」とか
「店の料理と酒を楽しむ」とか「とにかく喰う」とか
参加する一員として何を求めて行くかをイメージしてから行くと
それがクリアできればオッケーだし、それに付随するものはプラスアルファの
楽しみになるので、それでいいと思うようになってきました。

ツイッターをはじめて最初の頃は、読み切れないということに
本気で悩みました。
時間がいくらあっても足りないのです。

しかし、もうそれは仕方ないのだと諦めることで、
だいぶ楽になりました。
それも含めて人の縁でありタイミングだと、
その考えを受け入れることにした。

あと、個人的に自分がきつかったのが、
不意打ちで誰かの重い言葉が出てくることです。
そんなものは聞ききれませんよと。
実際にタイムライン上で見落とすこともありますし、
きりがないのです。
これも、申し訳ないんですが、受け止められるときは受ける、
そうでないときは受けない、と
割り切ることにしてしまいました。
これも、そこまで互いに期待しあうのもおかしい、と。
気になる時や友達はさかのぼって読んだりしますが、
それができないのも含めて人との関わりだと。

これは、フォローしている・されている という関係を
軽く考えること、諦めることで、
私が救われた例です。

逆に、自分のほうも、自分が発した言葉を
全部読んでもらえているという期待はしない、反応がなくても
きにしないと思うようになりました。

そういうときに自分が考える基準が「飲み会」でした。

飲み会で出てきた言葉を全部拾おうとするかと。
飲み会で言った発言を全部聞いて貰えると思うかと。
それはむしろマナー違反ではないのですかと。

飲み会でよく出てくる、よい言葉のひとつが
「◎◎さんとお話ししてみたかったんですよ」という言葉だと思うのですが、
これも、全員と話をするということを諦めることによって、
つかめることだと思いますし、
飲み会という「場」があるから、そういう出会いも生まれる。

全員と深く話すことは諦めるけど、その「場」には居るし、
受け入れる体勢もある。
少なくともそこにいるということで、傾ける耳はある。

ゆるいコミュニケーションの仕方だなと思うのですが、
そのくらいゆるくても、全然十分だなと知ったのでした。

逆に、そういう場だからこそ、少ない言葉数でコミュニケーションできる
こともある。
ツイッターをやってから、私はむしろ普段、
もっとこうして軽い会話をすべきなのだと思ったくらいですし、
それをやりたい人もたくさんいたのだと知りました。

大きく飲み会と違う点は、自分の好きなときに参加できることです。
時間と場所と料金のことを気にしなくていい飲み会。
メンツは一応知っている人か、知り合いの知り合い、
もしくは自分を見て声をかけてきてくれた人(=フォローしてくれた人)、
自分の好きな有名人や漫画家や著名人。
みんないつもいつもいるわけじゃないけど、いることもある。
それぞれが好きなことを言ったり会話したり言葉遊びしたりしている。

それはヤバイ。それは長居する。

ところで昨日、ブログをアップした後に
ツイッターで更新のお知らせをしたら、たくさんご意見を
いただきました。こういう、すぐに反応が来るっていうのも、
ツイッターのすごくありがたいところです。

飲み会がそうであるように、ツイッターって、
人が話を持ち寄る報告の場でもあるんですよね。

適当につづきます。
posted by ささきぃ at 00:34| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月18日

私的ツイッター論その1

ツイッターを始めて,気が付けば約半年がたちました。
あちこちのメディアで特集されてますが、
私個人が感じているツイッターの面白さについて
書いてみようと思います。

ごくごく基本的なツイッターの知識は
ある方前提に書きますので、
フォローとかフォロワーとかの単語もわからない方で
知りたいという方は、私のブログよりも
まずそういったことを教えてくれるサイトなり本なりを
読んでみることをおすすめします。


1)見るたびなにか変わっている

仕事でパソコンに向かっていて、休憩時に
人のブログとかニュースサイトを見るのですが、
まぁそうそう変化のあるものではありません。

ですが、ツイッターは有る程度の人数をフォローしていれば、
ちょっと時間が経つと、すぐに変化があるのですね。
当たり前だけどこれが面白さとして大きいです。
だから日に何度か見てみてしまう。
ツイッターの作りからいって当たり前なんですが、
何度も見る理由はこれです。


2)一覧性にすぐれていて情報量が多い

内容量の少ないブログとか、やたら改行の多いブログを
スクロールしてようやく全部見てみたところ
要は大きいケーキの写真と
それに対する驚きの言葉と、絵文字だけだったというような
ことがたまにあります。

これに対して、ツイッターの140文字という制限と
それを利用してのいろんな人の意見がバーッと並んでいる様を見ると
非常にぜいたくだなと思います。


この2つの長所をふまえた上で
「ツイッターは飲み会の面白さに近い」
というのが、私の感想です。

べつにみんなお酒に酔って書いてるわけじゃないから
語弊あるかもしれませんが、
いろんな人の意見やなんとなく思ったこととかが
ばーっと並んでいて、その不用意さ含めて、
飲み会感を感じたのです。

いろんな人が、それぞれに思うことを書いていて、
それに同調する人や、参考になる意見を引っ張ってきてくれる人がいる。

つまらない意見を言う人もいます。
場の空気を乱すように連続して自分ばっかり喋る人もいる。
でもまぁ聞き流していればいいというのも現実の飲み会と同じです。
つまんなきゃ他のサイト見てまたしばらくしてみると
また空気が変わっていたりもする。
この人の意見あまり見ていたくないなと思う人がいたら
リムーブすれば、その人は
自分の飲み会会場(=タイムライン上)からいなくなる。

面白い意見を言う人がいたら同調して面白いと発言してもいいし、
ただ興味深く見ていてもいい。
また自分が面白いことを言えば、それに反応してくれる人もいる。

たとえ自分なりに抜群だと思うことを書いたとしても、
場の空気(=タイムラインの流れ)によっては
まるきりウケなくてスルーされることもある。

すごく広い飲み会の会場にいるようだ、
と思ったのでした。


つづく。

とりいそぎ

「ツイッターを始めるのは面倒くさそうで
 やる気ないけど、ライター佐々木亜希が
 どんなこと書いてるのかは見てみたい」

という奇特で優しい方、いらっしゃいましたら
PCからでしたら右のサイドバーに流れているのを
ご覧になるか、もしくは
http://twilog.org/sasakey をブックマークしていただけますと
見やすくかつブログと同じイメージでお読みいただけると
思います。よろしくお願いします。

文頭に@がついているのは,その相手への
よびかけだったり会話だったりしています。
posted by ささきぃ at 01:01| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

プロデビューの理由

ちょっと古いニュースですが、ほほーっと思って保存していたものを。

42歳の女性がタイでプロデビュー(※サンスポ

日本では年齢制限があるので、タイで試合をしたそうです。
おやりになったこともすごいですが、
ボクシングをはじめた理由がすごいなと思いました。

ボクシングをはじめたきっかけは
「夫の携帯に別の女性からのメールを見つけた」こと。
怒って夫に殴りかかったが押さえ込まれてしまい、
強くなりたいと一念発起してボクシングジムへ通い出したそうな。

ボクシングに、プロとして年齢制限があるのは、間違っていないと思います。
でも頑張った証として公式戦に出たいという気持ちも、
これまた間違っていないというか、真っ当だと思うのです。

しかし、こんなに分かりやすい「殴りたい理由」もないですね。
取材したい。
posted by ささきぃ at 23:59| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月21日

人の拳は・・・

人の拳は、人を殴るようには出来ていない、そうです。
及川千尋のブログより(コチラ)。

いい言葉だなぁ。
いい言葉というのか、いい事実というのか。
なんだろう、殴る行為って私にとって、
すごいハードルの高い行為なのと同時に、
違和感があったんですよ。ずっと。
ハードパンチャーほど拳を壊しやすいということ含めて、
自分にとって興味を引かれる行為であり行動なのです。

以前からちまちま予告めいたことをしていた文章は、
私の力不足で遅くなっていたのですが、
ようやくお目見えする日がきそうです。
まだ先ですが。

嬉しいんで書きまくりたいんですけどね、
そんなに嬉しいのかと思われるくらい、
自慢したいのかというくらい書きたいんですけども!

正式に日程として決まったら、また改めて。
posted by ささきぃ at 19:50| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月08日

マインドマップに対する印象その2

ささいな考え事に対して使ってみて分かりました。
丁寧に考えるためのツールとして有効でした。

あーどーしよーかなー、やろーかなー、
やめよーかなー、とか、
集中せずに他のことをやりながら考える、みたいな
ことをやっていると、時間はどんどん過ぎますよね。
そういうことをせずに、マインドマップの技法を使って
紙に向かって集中して考えることでスッキリしました。

この仕事をやるか、やらないか、とかの考え事に対して、
やった場合、やらなかった場合をキチッと考えて
答えを出すのに有効でした。

参考にした本は「マインドマップ超入門」。
本はたくさん出ているけど
これが一番、薄くて軽くて安くて分かりやすいです。
他の本だと「マインドマップがいかに素晴らしいか」は
分かるけど、実際に使うまでにいささか腰が重くなるように思います。

しかし、できあがりはやっぱり人に見せるものではないですし
保存しておきたいものでもないです。
授業のノート取りに使うもんじゃ、ないんじゃないかなー。
習ったことを理解するための復習には有効なツールだと思います。
posted by ささきぃ at 23:59| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月06日

マインドマップに対する印象

どうも怪しいなと思っているのがマインドマップです。
本を読んだりもしたのですが
言うほど分かりやすくないんじゃないのかなと。
というか見た目が美しくはないんじゃないのかなと。
色を使ってカラフルにするとかがルールで入ってるけど
なんか幼児の落書きテイストを感じて、
申し訳ないけど美しさは感じず、受け入れがたいのです。

思考の過程で出てくる書き方ではあるけど
(というか自然と、考えたりしてたら
 放射状にものを書いていきますよね)
それはなんか、人に見せるものではないのではないかなと。

すごく役立つツールだとは思うし、
あらためてやってみれば発想のヒントにはなるけど
マインドマップを経て出来た文章なり企画書なりを
人に見せるのには使うべきですよね。

と、思えたところで、そうか、
人に見せるようなところで使わなければいいんだ、と
気づき、それなら使えるかなと割り切れました。

それにしても、マインドマップもそうだし
ノートの有効活用術とかもそうですし、
思考のきっかけ作りだったり発想のやり方だったりと
仕事のやり方やヒント、チップスとかライフハックって言うんですかね、
そういうものがたくさん本になっているけれど
あのへんは男性向けの「すてきな奥さん」的な、
節約術の本を女性が好むような面に似ていると思いました。

私自身は「すて奥」系の本も
チップス系の本も両方好きです。なのでそう感じたのです。

マインドマップは自分なりに役立てる方法を考えてみます。

posted by ささきぃ at 23:59| 考えたいテーマ&連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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